ズレ

 さっき、中国人の書いた「日中関係本」を読んでいたら、その中で著者がしきりに「中国は、謝罪の文化です」「中国人は、ちょっとしたことでも、すぐに相手に謝ります」などと書いていて(これに続けて「それにつけても、日本は戦争その他でまったく謝らない」がくるわけです)、思わず苦笑してしまいました。中国に行ったことのある人なら、中国人が「謝らない人たち」であることは常識です。中国語の「ごめんなさい」は「対不起」ですが、僕が留学していた2年間で、中国人からこの言葉を聞いたのは、冗談抜きで10本の指で足りるほどです(逆に留学生仲間からの方がよく聞いたりして)。日本で「すみません」(この言葉が謝罪だけではなく、いろんな意味のこもったオールマイティ語であることは確かですが、まあいちおう)は、下手すりゃ1日で10回聞けるでしょう。

 もちろんだから良いとか悪いとかではありません。「中国人はいつでもどこでも謝るのではなく、ここぞという時に、心を込めて謝るのだ」という解釈も、まあ可能でしょうし。ここで面白いな、と思うのは、「自己のイメージ」というのは、往々にして上方修正される傾向にある、ということです。やっぱ誰しも自分が可愛い。自分を(実際よりも?)良いものとして見たいわけです。よくいわれるように、自己嫌悪、「オレってだめなやつ」と思っているような人も、実は「自己嫌悪に陥る、そういう自分が可愛い、すばらしい」と思ってたりするし。

 だもんで、最近の日中関係論お決まりのテーマ「日中相互認識のズレ」、これって、一見妥当なテーマに見えて、実はあまり有効でない、といっていいすぎなら、ちょっと扱いが難しいテーマなんじゃないか、と思うわけです。「ズレ」にはいろんな解釈があるでしょうが、中心となるのは、「実像と虚像のズレ」、つまり、「本当の日本(中国)はこうなのに、それを中国(日本)は誤解している」、という方向だと思います。で、その際「本当の日本(中国)」として提示されるのは、実は「日本人の日本観(中国人の中国観)」である場合が多い。我々には、何となく、「自分のことは、自分が一番よく分かる」という先入観がありますので。しかし、本当にそうでしょうか。冒頭では「中国人の中国観」をあざ笑いましたが、「日本人の日本観」だって、同じように笑いものになるようなものかもしれません。
 「自己イメージ」については個人について考えるとわかりやすいかも。「自分では優しい、いい人間だと思っているのに、他人が見ればイヤな奴」なんてのは珍しくも何ともないでしょう。で、その時、どっちの意見が正しいのか、どっちの見方が実像なのか、という問いはほとんど無意味です。

 なので、「ズレ」を是正するなんていうのはほとんど不可能。永遠にズレ続けます(と断言)。僕らにできるのは、武田雅哉氏の新著『〈鬼子〉たちの肖像』(中公新書)が示唆しているように、「(お互いに)指弾や怒りではなく、とりあえず、ニヤニヤ笑って鑑賞しましょう」という余裕、なんじゃないですかね。もちろん、こちらの「自画像」もニヤニヤと鑑賞されること織り込み済みで。


 そうそう、留学中の語学の授業で、「中国と自分の国との違い」というお題が出た時、ある日本人が「中国人は、バスに乗る時に並ばない」と発言して、それに対しクラス(いろんな国の人)みんなが「そうだそうだ!」と雷同した時、中国人の先生(けっこう若い女の人でした)だけが「いや、我々は並ぶ」と断固主張していたのをふと思い出しました。ま、このぐらいの事実誤認なら可愛いものです。