個性

 例えば、A、B、Cの三人の生徒がいたとします。この3人だけで考えた場合、もし3人とも同じことをやれば差が出ないのは当たり前ですが、3人全員がバラバラなことをしたとしても、そこに個性は生まれません(例えば、Aが野球、Bが勉強、Cが旅行をするとして、「誰が個性的か」という設問は、ナンセンスです)。BとCが同じことをして、Aだけが違った時、はじめてAは「個性がある」と評価されるわけです。
 つまり、Aの個性はB、Cの犠牲の上に成り立っているわけで、逆にB、Cの存在意義はAを際立たせるための踏み台としてのものしかない−個性を突き詰めれば、こういうことになるんでしょう。
 「個性重視」が唱えられた時(今でもですが)、個性が全くない、明らかにBCタイプの僕は、そんなことを思って、ちょっと哀しくなったものでした。
(ちなみに、ハリウッド映画を見ていていつも思うのは、アメリカ社会(といって言い過ぎなら、ハリウッド社会)というのが、「A至上主義」、つまり、B・Cにはなんの価値もなく、Aのみが賞賛され、喝采を受ける社会なんだなあ、ということです)

 で、昨日の「高校や大学教育で、就職のための付加価値を付ける」というのに、ほとんど賛成なのですがちょっとためらいがあるのは、ここです。上の話とはちょっとズレるのですが、付加価値、例えばエクセルとか英語とか、そういうのって、Aじゃなければ意味がないんじゃないのかなあ、と思うのです。ABC三人ともエクセル・英語ができたのなら、そこに付加価値は生まれません。BCはできないけど、Aにはできる、または、AがBCを出し抜いて、エクセル英語以外に、プログラミングや中国語ができるようになる、それではじめて、Aに付加価値が生まれるわけです。

 職業教育ってこういう世界なんじゃないのかなあ、というのが僕の素人考えです。日本で「日本語の話せる者」というのに就職上の価値は(ほとんど)ありません。ほとんど全員が話せるからです。また、ちょっと前ならパソコンができるというのが付加価値になったでしょうが、今ではワード・エクセルぐらいができたところで、たいした付加価値にはなりません。
 つまりは、つねに人を出し抜くことが強いられる社会、「他人のできないこと・やってないことをやることを迫られる社会」、「就職至上主義教育」って、究極的にはこうなんじゃないかと思うのです。で、それって、(僕のような)凡人には、行きにくい社会だなあ、と思ったりするのでした。