男にケンカで勝つ女−真の「新女性」−

 H氏のご教示のおかげで、「中国の戦う女性」(のとくに「還珠格格」)、なんとかなりそうです。

 その関係で、映画「新女性」を見直しました。と、本題とは離れたところで面白い場面を発見。

 阮玲玉演じる韋明が、子供の薬代を稼ぐため、体を売ることを決意したが、客はよりによって、以前から彼女にしつこく言い寄っていた妻のある男性だった。韋明はとっさに逃げ帰るが、男が家まで押し掛けてくる、というシーン。

 居合わせた韋明の友人の女性(李阿英(殷虚飾))が、その男とガチンコで壮絶な殴り合いをして、見事勝ってしまうのです。

 女が男にケンカで勝つ。映画やテレビドラマでは別に珍しくもない、かもしれません。しかし、その時ほとんどの場合、女が剣術や拳法の達人だったりと、女になんらかの「付加価値」が付いているんじゃないか、と思います。「還珠格格」なんかそうですね。小燕子は男たちをバッタバッタとやっつけますが、あれは「小燕子」だからです。しかも、撮る側としては、「こんなにカワイイ女の子が、実は拳法の達人」というギャップを、明らかに狙っています。つまり、「女の子(しかもカワイイ)は力が弱い」という絶対的な前提が見る側に共有されているからこそ、「実は強いのだ」という設定の間にギャップが生じて、「意外」性が発揮される、というわけです(この程度の設定はもはや意外でもなんでもないですが)。

 しかし、「普通の女」が「普通の男」にケンカで勝つ、という映画・場面は、はたしてあるでしょうか。

 例えば浮気が発覚して妻が逆上して夫が「イテテやめろよ」とか言うシーンがいかにもありそうですが、しかしこの場合、男があくまでも「本気を出していない」というのが、暗黙の前提になるんじゃないでしょうか。

 というのも、実生活で、男のほうが女よりも力が強いというのは、もう絶対的な前提条件になっているからです。もちろん、僕が女子プロレスラーとケンカしたら当然負けますが、そういう「付加価値」のない「普通の女」は、「普通の男」よりも、力が弱い、ケンカも弱い。「うちの女房は強くって……」みたいなのも、「男が本気を出さない(「女に手は上げない」みたいな「美意識」からか)」という前提の元に、成り立っております。

 もちろん、「だからやっぱり男が偉い」とかそんなアホなレベルの話ではありません。が、そういう暗黙の了解があるからこそ、それを見事にひっくり返す「新女性」のあのシーンが、妙に新鮮・引っかかる(いい意味で)のかなあと考えております。さすがにこの映画で、「李阿英は拳法の達人だった」ということはないでしょう。ケンカのシーンもヤケにリアルです。それぞれが本気でやり合って、男が椅子による凶器攻撃を仕掛けて、でも最後には男を吹っ飛ばす。なんかこう、見ていて爽快な気分になります。

 その意味で、この映画の真の「新女性」は、実はこの李阿英なんじゃないか。映画の最後で彼女が、死んでゆく韋明(=「旧女性」?ちょっと言い過ぎかもしれませんが)に代わって女子学校で音楽を教えるようになるのが非常に示唆的なんじゃないか、なんて思ったりしました。製作者は、李阿英に、「中身」ばかりでなく「力」でも男に勝つ女性のプロトタイプとしての役割を与えた、みたいに。

 この程度の分析なら、誰かもうやっているかもしれませんが。