階層

 生協の本屋に、今売れているという『下流社会』を買いに行ったのですが、昨日はあったはずなのになくなっていました。やっぱ売れているんだ。

 日本でも階層化社会が「進んでいる」、格差が「広がってきている」、という昨今はやりの説には、根強い批判もありますが(最近だと、大竹文雄『日本の不平等』日本経済新聞社、2005とか)、しかし格差が「ある」ということには、誰も異論がないでしょう。まあそりゃそうです。年収はみんな違いますから。
 しかし、階層なんていうのは、人によって感じ方が違うんでしょうね。
 例えば、僕がいつも拝見している内田センセイのブログ。ちょっと前に、「自分は、ホリエやムラカミみたいな方々の生活にはトンと考えが及ばない」ということを書いておりました。まあ、おそらくは、ご自分が「庶民」なんだ、ということをアピールしたいのだと思います(本の売り上げとかの関係で。ひねくれた見方ですが)。

 しかし、ブログを拝見している限りでは、彼の生活が「庶民」のものだとは、とても思えません。たくさんの習い事をし、多くの友人(もちろん、有名人も多い)たちと優雅な交流をし……
 「おいおい、これが庶民の生活かよ」と文句の一つもつけたくなります。

 もちろん、これは内田センセイが悪いのではまったくありません。悪いのは、「クッソーたかが大学教師のくせにこんないい生活をしやがって」というルサンチマンを勝手に発動させている僕です。ただ、なんというか、内田センセイの生活ぶりは、おそらくご自身が考えておられるのよりもずっとずっとハイソなものなのだ、ということは、言えるんじゃないかと思います。

 なんだかんだいって、人間の交友範囲は、所詮は自分と同じ階層に限定されがち、だと思います(もちろん、人によってさまざまなのは当然として)。僕がヒルズ族と友達になれる可能性はほとんどゼロだし、いっぽうで、いわゆる下層階級の方々と知り合う機会も、よっぽど意識的にそういう機会を作ろうとしない限りはない、といっていいでしょう。一般論として、「職場以外の友達を作れ」とよくいわれるし、作った方がいいのは確かです。が、「いろんな友達を作る(友達がいる)」というのも、それはそれで立派な社会資本です。そもそも社会資本に欠けた階層にとっては、けっこう高いハードルだったりします。

 で、同じような階層に囲まれていると、自分の位置がどのあたりなのかがわかりにくい。よく(俗流)都市論なんかでいわれるように、昔は同じ地域にインテリから会社社長から農家からヤクザまで、いろんな階層・職種の人が同居していたのに(僕が生まれ育ったとこなんて、まさにそうでした)、今は均質化されてきて、似たような階層ばかりになった(郊外の団地とか社宅とか)、というのは、ちょっと雑な分析だとは思うものの、そこそこ当たっているんじゃないか、とも思います。そうなると、ものすごく上とものすごく下、は除くとして、幅広い中間層の中で、自分がどの辺なのかって、ちょっと掴みにくい。自分の生活レベルがどの辺なのかを正確に把握するって、けっこう難しいんじゃないか、と思うわけです。