ボツネタ

 こないだちょっと触れたボツネタその2。でもこれは完全なボツではなく、時間ができたらぜひやりたいテーマです。

 ニュースを見ていると、企業や役所の不祥事で、いい歳をしたオジサンたちがぺこりと頭を下げる図が毎日といっていいほど流れます。僕は、昔からあれが好きではなくて、「頭を下げればいいんだろう?」みたいな開き直りも嫌い、「謝れYO!頭下げろYO!!」というヤクザみたいなマスコミの姿勢も嫌い、と嫌いづくしでした。そもそも、マスコミの前であんな風に頭を下げる、みたいなパフォーマンスが行われる=ああいう行為が意味を持つのって、日本だけじゃないでしょうか。アメリカの、あるいは中国のニュースで、あの手の「頭ぺこり」が放映されたのって、見たことありません。以前、日本の車メーカーの社長に就任したアメリカ人が、そのメーカーの不祥事で、頭ぺこりをやっている(やらされている)場面をニュースで見て、なんだか可哀想になったのを覚えております。それは、たんに「謝らせられているから可哀想」なのではなく、「(おそらくは)意味も分からずに謝らせられているから可哀想」だったんだと思います。

 日本社会は、企業の謝罪から日常生活にいたるまで、(時には頭ぺこり、あるいは土下座付きで)「謝る」ことが異様に意味を持つ社会なんじゃないか、と思っています。例えば鉄道会社が事故を起こして、死者が出た、みたいな時、ほぼ必ず報道されるのが「社長がじかに謝罪していない」という遺族の不満の言葉です。そういえば、ヨーロッパの鉄道事故に巻き込まれた日本人遺族が、同じように「社長の謝罪がない」と憤慨していたのをまた思い出しました。この場合、たぶん、向こうの社長は「無礼」なのではなく、たんに「遺族への直接謝罪」というのにとくに意味を持っていない、ということなんじゃないでしょうか(もちろん、かといって、この遺族のこうした不満はお門違い、といいたいわけではありませんが)。「謝罪する/しない」って、一見「礼儀正しい/正しくない」という文脈で語られそうですが、上でも書いたように、「謝ればいいんだろ?」みたいな開き直りにも利用されそうな気がします。


 それで思うのが、現在の日本における一番の「謝罪問題」、すなわち「先の戦争に対する謝罪」です。日本人の感情としてよく言われるのが「我々はいつまで謝ればいいのだ」です。日本は、ちゃんと謝ったじゃないか、なんでいつまでもブツブツ言われなければならないんだ。こういう不満は、正直僕にも、全くないとは言えません。
 多分それは、日本人における「謝罪」が、「禊ぎ」みたいに、一度やればそれでOK、逆にいうと、「謝ればいいんだろ?」的開き直りに近いからなんじゃないでしょうか。で、それって、欧米はもちろん、アジアの他の国とも違うものなんじゃないでしょうか。なので、こういったすれ違いが起こる、と。

 そこから、例えば英語の「I'm sory」(もしくはapologize)と中国語の「対不起」と日本語の「ごめんなさい」の語源を調べ、その違いを分析する、みたいなのをやろうと思っているのですが、面倒くさいのでそれっきり。結構面白いネタだとは思うんですけどね。