批判精神。

 前にもちょっと書きましたが、うちの学科で「アドミッション・ポリシー」(「どんな学生を望むか」という、まあお題目です)というのを決めました。その時、候補として「社会に対して批判的な精神を持ち・・・」というのがあったのですが、「なんだか、社会に対して文句ばかり付けてるようなイメージがある」ということでボツになりました。

 で、今日、ここでも何度か引用させて頂いている内田先生の新著を読んだのですが、この本を読んでいると、どうもこう、違和感を感じる部分がありました。それが「“批判精神”(もっと広い意味で「世の中に疑問を持つこと」ぐらいでもいいかもしれませんが)を持つことは大切だ・必要だ」という部分でした。う〜む、批判精神って、持たなきゃいけないものなのか?

 話はあれこれ飛びますが、今やっている「日本語技法」という授業。基本的に何をやってもいいんですが、僕は「世の中の疑問・問題をプレゼンし、討論する」というのをやっております。で、この題目をたてた時、ふと思ったのが、この「世の中に対する批判精神というのは、持たなきゃいけないことなのか?」ということでした。もしかしたら、世の中に対して肯定的で、とくに疑問も不満も持たずに生活している学生さんもいるかもしれない。そういう学生さんって、ダメな学生なのか?まあ僕の授業なら、「自分はとくに問題視していないしどうでもいいんだけど、世の中では問題だとされている問題を提示する」というのでお茶を濁せばOKです。ただ、そもそもはたして、「いい大人」になるのに、「批判精神」なんてのは必要不可欠な要素なのか?

 人文系の研究者になるとか、そういう奇特な人なら、まあないよりはあった方がいいといえるかもしれません。しかし、娑婆に暮らす人間にとっては、なくてもいい(あってもいいけど)ものじゃないのか?「どうせ世の中変わらない・変えられないんだから、社会に対して不平を持つよりも、むしろ自分の持っている「社会に対する考え」を変え、現状肯定的なものにしていくことのほうがよっぽど有効だし、現実的」という醒めた見方(つまり、「社会を変えるより、自分を変える」)もアリだろうし。
 「籠の中にいるけど、エサはふんだんにもらえる小鳥と、外を自由に飛び回れるけど、エサは自分で確保しなければならない小鳥と、どっちを選ぶ?」というよく使われる比喩があって、内田先生のような人文系知識人は後者を選べ!と主張されると思うのですが、しかし、世の中の多くの人は、「とりあえず、満腹になれるならいいや」と前者を選ぶと思います(たぶん、僕も)。そういう選択は、はたして「間違った」ものなのか?あるいは魯迅の「鉄の部屋」の比喩なんかもそう。「いつかは死ぬ(かもしれない)けど、それまではのんびりと過ごせる」という部屋で安楽を貪る人々は、はたしてダメな人たちなのか?

 なんてことを、どうも切れ味が今ひとつだと感じる新著を読んで考えたものでした。