庇う。

 2日前の話題に戻りますが、もし靖国参拝を、内在的に、絶対的な悪と規定するなら、それはやはりA級戦犯絶対否定、となると思うのですが、実際には、左の方々も、これを言い切ることはしていない、と思うんですね(「A級戦犯が合祀されているから」というのは確かによく聞く「反対理由」ではありますが、しかしこれも、「“A級戦犯が合祀されているからダメ”と、アジア各国が言うから」というふうに回収されている気がします)。つまり、これって、もちろん「信教の自由」という理由があるとしても、もう一つ、「A級戦犯に罪をなすりつけることは、潔くない、卑怯なことだ」「罪は、我々日本人全体が被って行かなくてはならない」みたいな、ある意味日本的美意識的なものが関わっているんじゃないか、と思うわけです。

 もちろん、「戦争には日本人全部が関わった」というのは、ある程度までは正しい、とは思います。また、企業の不祥事なんかでも、特定の個人に責任を負わせるよりは、当事者全体で責任を負うのが美しい、あるいは、誰かのミスをかばうのがカッコイイ、みたいな感覚があるのかも、とも思います。しかしこういう考えは容易に「みんなが悪かったんだから、仕方がない」みたいな責任回避につながります。僕的には、こういう「日本的美意識」(と勝手に名付けちゃいますが)が「絶対悪」とは必ずしも思いませんが、とはいえ、外部の目からすると、「体のいい責任逃れ」に見えることも容易に想像できます。


 中韓からすると、A級戦犯は絶対的な悪、なんでしょう。変な意味じゃなく、「日本人はやつらを悪者にして、全責任をやつらにかぶせればいいじゃないか」と思っているのかも。しかし、我々日本人はたぶんそこまで言い切れない、A級戦犯の「美化」には反対できても、その逆、ハリウッド映画に出てくる悪役みたいに、絶対的な悪と認定して自分たちと完全に切り離すことにも抵抗がある。せいぜいいえるのは、「やつらも悪い、でも、オレらにも責任がないわけではない」ぐらいまで。終戦直後には東条英機らに戦争の全責任を負わせ、「我々民衆はやつらに騙された!」的な論調が主流だったとのことですが、時を経るに随って、「彼らだけが悪いんじゃない」という意見が、右からも左からも出てきている気がします。

 これは昭和天皇の戦争責任問題にもつながるでしょう。右はいうまでもなく、左の人も昭和天皇に責任を着せるのにどこか躊躇があるのは、「昭和天皇に責任をなすりつける、そういう態度を潔しとしない」からじゃないでしょうか。


 な〜んて難しいこと(でもないですが)をあれこれ考えてきていますが、しかし、ブログやHPには、こういった天下国家を論じたものもあるいっぽうで、本当にごく身近な、自分の家族とか旅行の写真とかを載せたようなホンワカしたものもあって、僕はそっちも好きです。世の中のいろんな人の生活を垣間見れた気がして。

 世の中には世界を股にかけるビジネスマンや政治家なんかもいるんでしょうが、でもほとんどは、自分に手の届く範囲で、細々と(この形容は、決して否定的な意味で使っているのではありません)暮らしております。もちろん僕もその一人。小泉がどうとか世界情勢がどうとか、そんなことよりも自分の家族の笑顔が一番、という人がほとんどです。

 さっきも、ある(たぶん)名もない人のHPを見ていたら、本当に涙が出そうになりました。別にどうってことない内容だったんですけどね。世界中の人がそれぞれの生活を営んでいる。当たり前ですが、そのことがなんだかとっても嬉しく思えてきたのでした。