あれもこれもの多様性。

 ここんとこ書いてきたことともリンクするのですが、僕は基本的にやっぱり、いろんなものがごちゃ混ぜになった状態が好きなんですね。

 たとえば、学会。マジメ〜な哲学や文学の研究もアリだし、でも一方で映画や図像の研究もアリ。これがあるべき姿じゃないですかね。普通に考えて、「論語研究と野人研究、どっちが上?」なんて設問は、「タコとマグロ、どっちが偉い?」という設問と同程度にナンセンスです。もちろん、研究自体の出来の善し悪しはあるとしても。

 だから、こないだのシンポみたいなオモシロゲなものは大好きですが、だからといって「こっちの方がマジメなものよりもいい研究だ」「図像研究もしないで中国の何が分かる」的な物言いには反対します。どっちもアリでいいじゃん。どうせ一人では、森羅万象にわたって研究するのは無理なんだし。


 また、これについては自分の勤め先の悪口をコッソリいうみたいでやや気が引けるのですが、去年の「新入社員研修」で、「学部や学科として共通の、教員の教育・研究目標を設置する」みたいなことが話し合われました。で、ヘタレな僕はその場ではいえませんでしたが、どうもこれにも違和感がありました。「どうせ“学生のために”とか抽象的なことしか言えないから無意味」というのではなく、むしろ具体的に共通の目標など設置された方が、余計なお世話だと思うのです。

 理想論になるかもしれませんが、大学教師なんてサラリーマンじゃないんだから(サラリーマンを貶める意図は全くありませんが)、画一的ではない、いろんな人がいていいんじゃないかと思うのですけどね。最新の企業システム論を教える人もいれば、頑固一徹、ゼミではひたすらニーチェを原文で読み続ける人がいてもいいし。そうした中で、教員各人が彼らなりにいろんな目標を持つということは、別に悪いことではないと思うのですが(もちろん、個人個人で見ていけば、何の目標も目的もなく漫然と教えるよりは、何らかの目標を掲げた方が、効果的だとは思いますが。そして、なので、いろんな専門の人が緩〜くつながっているといういわゆる大講座制に、僕は賛成です)。

 また、「学部・学科がどんな学生に入学してほしいか」(なんか名前が付いていましたが、忘れちゃった。アドミッション・ポリシーとかいいましたっけ?)も会議で話し合われたのですが、これまた余計なお世話です。学生の中にオタクがいてもいいし、ちょっとアブないやつがいてもいいし、コギャルがいてもいいし、あるいはおじさんおばさん、おじいさんおばあさんがいてもいい。ヘタすりゃ勉強などまるでせずにひたすらバイトやサークルに精を出すやつがいたっていいでしょう。「こういう学生が望ましい」なんて、そんな偉そうなことが言える立場でしょうか。これも別に、「少子化だから、どんな学生でも拒まず入れるべき」なんてレベルではなく、ただでさえ同調圧力の高い日本社会、いろんな人種のるつぼに学生のみならず教員をも放り込むのは、「毒消し」のためにも絶対にいいことでしょう。

 また新聞も…というともうしつこいのでやめます。


 こんな偉そうなことを言うからといって、僕がすべての人間を受け入れる寛容な人間というわけでは全くありません。人見知りの極地で、外国に行っても(日本でもですが)ロクに話もできず、立食パーティーなんかがあっても誰とも話ができずひたすら食って飲むだけ……という、まあ典型的な日本人です。でもだからこそ、むしろ意図的に、こういう環境を作り出したい、こういう混沌の中に身を沈めてみたい、という思いが強いのかもしれません。