文学の効用

たまに、二昔前ぐらいの本を読んでいると、大上段に振りかぶってるなあ、と思うことがよくあります。

つまりは、「人間、いかにあるべきか」を語っている。

私の業界の本もそうです。竹内好はもちろん、丸山昇とか、丸尾常喜とか、そういう方々の本には、たとえば魯迅を通して「人間はいかにあるべきか」を語るのが当然、といった雰囲気があるのですよね。

それが崩れたのはいつぐらいなんでしょうねえ。やっぱりポストモダンの影響なんでしょうか。いつのころからか、むしろそういうのはタブーとされるかのようになってきた。魯迅研究で分かるのは魯迅だけだぞ。人間の生き方なんて分かるわけねーじゃねえか。たかが文学研究者の分際で、「人間とは何か」なんて語ってんじゃねーぞ。
生き方なんて人それぞれ。いい生き方も人それぞれ。「こう生きろ」なんて他人にいえるわけがないし、いうべきでもない。
という相対化が広まってきた。
私も、かなりの程度、そう思います。

しかしじゃあ文学研究は文学研究やってりゃいいんだということで細かな作家の事跡とか何とかを調べるようになると、「他人」に訴えるものが何もないのですよね。魯迅はいついつこれをしました。はあそうですか。で終わり。「で、その研究とやらがオレと何の関係があるんだ?」で終わり。

このジレンマは、授業をやってると本当に思います。当時の時代背景を細かに解説して、「魯迅のこの作品にはこうした背景があるんです」といっても、学生はふうんそうですか、という顔。実際、授業後の感想でも、「当時の中国は大変だったんだな、と思いました」という他人事感。うん、そりゃまあ他人事だよな、と、やってる方も思います。

どうすりゃいいんでしょうね。やはりもう一度、「人間とは何か」に戻ったほうがいいのか。でもそれはそれで、今の世の中じゃ、自己啓発扱いされるでしょうし。