ジグソーパズルとストーリー

この時期になると、卒論修論関係で、同僚といろいろ話をします。

普段、研究の話をすることってあまりなくて、もっぱら校務に関することばかりなので、なかなか勉強になります。

で、とくに歴史研究の方々と話していてつくづく思いますが、文学研究者とは、一見お隣の分野で価値観が似ているようで、まったく違いますね。

歴史研究って、いわばジグソーパズルなんですよね。

書けている部分にピースを埋めていくイメージなんですよ、研究が。

で、そのピースを探すのが、研究内容。

なので、ピースを埋めるのは誰でもいいんですよ。佐藤さんが埋めても、田中さんが埋めても、あるいは李さんやスミスさんが埋めても、同じになる。少なくとも前提はそう。

そう、これって、理系的ですよね。理系ももちろん、佐藤さんが高知で実験やろうが、スミスさんがアフリカで実験やろうが、結果は同じになるという前提です。こういうイメージ。

なので歴史研究だと、「この分野の研究は今までなされていない」というのがほぼかならず前置きにきます。だからこそやる意味があるし、逆に、誰かがやっている部分だと、やる意味はない。

もちろん、すでにやられている部分でも、「今までの研究は間違っている」という前提の研究はアリです。が、そういう「既存の研究を覆す」ということの重みは、文学研究とは比べものにならない。


一方文学研究は、あくまで「研究する人」が重要なんですよね。

同じ作品を読んでも、佐藤さんと田中さん、李さんやスミスさんでは、感じ方や考え方が、それぞれ根本的に違う。

「自分の読み」あるいはストーリーを、うまいこと作って披露するのが、文学研究。突飛なことや面白いことをいえばいいというものではもちろんないのですが、オリジナルはより重視されます。

先行研究を覆すのもわりと容易。ペーペーが「私は誰々大先生の読みとは違います」と書いても、別にそれは許されます。そういうのに寛容。


だからどうだというわけではないのですが、歴史屋さんと話していると、その辺の前提がそもそも違うよな、と思うことが多々あるので。先日も、とある歴史論文の審査で私が「で、これはどういうストーリーになるのですか?」みたいなことを聞いたら、その学生も、あるいは指導教員の方々も、今ひとつピンときていないようだったので。