知識人の矜持

先日はこの本を。



ちょっと古い論考があるのが「?」でしたが(中国で15年前って、日本でいうと100年前ぐらいの感覚ですよね(嘘))、それでもなかなか興味深かったです。


で、興味深いのは、その語り口。

中国知識人の語り口、独特ですよね。以前、ある老学者の回想録みたいなのを訳したことがあるのですが、それも、同じような語り口なのを思い出しました。


で、どんな語り口なの?というと、なかなか説明できないんですねこれが。「○○は3つある。1つは…」という論じ方が大好き、というのはありますが、別に中国知識人だけの特徴、というわけじゃないし。


1つ、言えそうなのは、「閉じた議論」をする傾向にある、ということでしょうか。つまり、「中国(の言葉)で中国を説明しようとする」という。

日本にありがちないわゆる「出羽の神」、中国ではまず見ません。いろんな理由から「あえてしない」と言うよりも、そもそもそういう議論が眼中にないというか。

閉じているので、議論がループするのですよ。この本も、なんか説明がぐるぐる回っている。中国のあれこれを、中国のあれこれで説明しているので、最終的には「中国は特別だ」で終わる、みたいな。それを海外の基準で判断しよう、という意識が、あんまりみられない。

これ、論文でも見られるですよ。特に社会科学系。ネット社会を論じたものとか。最後は「中国は特別だ」に逃げようとする(言葉は悪いですが)。

彼らからすると、「西洋の基準で中国を見る」という議論だって、「中国は遅れている」に逃げているじゃないか。となるのかもしれません。それはわかる。わかるんだけど、それだと永久に噛み合わないままだよなあ、という。

しかも、中国知識人のこういう(議論がループする)傾向、別に最近起こったものじゃなく、先の老先生にも見られるように、昔から、ですよね、「実践より理論」を重視する中国知識人の典型的なあり方、といってしまえばそれまでなのかもしれません。が、「で、それでなんぼ儲かるの?」的結論がハッキリした議論が大好きなオレとしては、なんかこう、もどかしさを感じるんですよね。あんまり、好きにはなれません。