脱構築者の悲哀

オレが研究としてやっていることは、広く言えば、脱構築

つまりは、「常識を疑え」です。「“ある年齢になったら学校に行く”という常識は、いつどうやって作られたか」「“勉強ができる人が偉い”という常識は、いつどうやって作られたか」「“先生は偉い”という常識は(ry」みたいなの。

それはそれで楽しいのですが。


これ、自分が「作り上げる側」になると、なかなか大変なんですよね。


例えば、今、国際交流みたいなのをやっています。そういうプログラムを作ろうとしている。

すると、自分がやっているその作業に、突っ込みを入れる自分がいるのですよね。


「“国際交流は良いことだ”という常識は(ry」

とか、

「そもそも“国際交流”というものは、いつどうやって(ry」

とか。


で、なんか完全にはのめり込めないのですよね。むしろ、脇で一生懸命やっている同僚や事務方に、冷ややかな目を向けてみたくなったり。


脱構築を貫徹させるのは難しいわい、と思い悩む今日この頃なのでした。