結果論

卒論のシーズン。

毎年、偉そうに卒論を指導していて思いますが、この制度、「努力賞」的なんだよな、と。

うんざりするほど言われる「コピペはダメですよ」、これ、「結果・出来はともあれ、自分の力でやるのが大切なんですよ」ということですよね。

つまり、「結果が大事」なのであれば、コピペだって良いわけです。「良いコピペ」つまりは「“正しい”意見をネットから探してくる技術」を評価する、というのだって、アリなわけですよ。でも無論、少なくとも日本では、表向きはそれは通りません。

こんなこと考えるのも、たぶんオレが、「自分の力で」「過程が大事」という価値観に毒されていない、中国の人たちとそれなりに関わっているからでしょう。もちろん人による、というのは大前提ですが、中国人の学生の場合、「日本では、コピペはダメ、ということになっているので、それに従ってください」と説くことから始めなくてはなりません。彼らの結構な割合は、「コピペでなんでダメなの?」かが、本当に分からない。実際、中国の大学のレポートなんかでは、コピペ推奨というか、教員にレポートの書き方を質問に行っても「そんなの、ネットにいくらでも上がっているだろう」といわれて終わり、というのは、よく耳にします。

結局日本は、「オリジナル」にこそ価値を置くんだなあ、と思った次第です。


さらに、以前理系の人と話していて思ったのですが。

理系のファーストオーサー・セカンドオーサー。あれ、文系で考えると、意味不明というか意味がないというか。「2人(3人、4人)で一緒に考えました、って、意味なくね?」「1人で考え、書いたものじゃなくちゃ、意味なくね?」というのが、一般的な反応でしょう。

でも理系(のその人)にいわせると、文系が「1人で」にこだわることが理解できないらしい。「オレはこう考えました。これはオレ独自の考えです」というのをいくら聞かされても読まされても、全然ピンと来ない。みんなで考えて、「これが答え、最終版です」と提出した方が、よっぽど意味があるんじゃない?とのこと。

たしかに、ふと考えると、文系のとくに人文系というのは、そもそもが「過程が大事」なんですよね。「最終的な・たった一つの答え」なんてないというのは、もう共通認識としてあって、それをいろいろ考えました、という過程を評価する学問、というか。


それで、日本の文系で、卒論(のオリジナル性)がなんであれだけ重視されるのか、なんとなく分かったですよ。

実際、留学生からすると、日本の「卒論重視」は、ちょっと奇異に映るみたいですね。今年も、日本人学生が心配顔で「このやり方は剽窃になるでしょうか」と聞いてきたり青い顔で必死に書いているのを横目に、中国人学生は「何でそんなに必死こいてんの?」とでもいわんばかりの余裕顔(というかあまり来ない)です。ま、あんだけ言ったので、コピペはしないと思うけど。