事実の軽視

こっちでは、おもに歴史系相手に講演させられています。

オレ、文学研究者の中ではそうとう歴史よりの人間だと思っていますが、それでも、やっぱり最後の最後は「歴史屋」にはなりきれないんですよね。


オレの場合、オーバーに言うと、「どうであったか」はそれほど重要ではない。「どういう風に語られていたか」にこそ、興味がある。

でも今回講演をしていると、歴史系の先生方からは、「でも、事実はこうだったじゃないですか」みたいな反論というか意見が出てきます。


この反論自体はとてもためになります。逆に「どうであったか」には全く疎いので、「へえ、実際にはそうだったんだ」というので、勉強になりました。

でも、最後の最後では、「事実」はどうでもいいんですよね。とはいえ、そんなことは言えないし…


これ、今話題の日中関係においても、たとえられるかもしれませんね。

たとえば、日本では中国の反日デモが大きく報道される。
それに対し、「いやいや、あんなのはごく一部の人間がやっていることだ」と「事実」で反論する人たちがいる。

もちろん、「事実」として、あれが「一部の人間」がやっていることだ、というのはその通りとして(とはいえ、「一部の人間だから無いも一緒だ」というのがはたして正しいかは、別ですが)、オレとしてはやっぱり、「なんで日本ではこんな風に大げさに報道されるのか」という、そのメカニズムに興味があります。


いうまでもなく、どっちの態度が正しいとかいうわけではありません。好みの問題。

しかも相変わらず、質疑応答はしどろもどろ。しかも火曜日からの講演では、通訳を手伝ってもらっていた先生がいなくなる…