隙間を埋める

昨日の続きというか付け足しですが。

「マジメに指導している人の学生さんほど、ちまちましたテーマになりがち」の部分なのですが(t-kawaseさんにスターもらったところ)、これ、議論が分かれるところだなあ、と思いまして。

「マジメに指導している人」というのは、自分の研究分野でよくやられているテーマを、そのまま学生にオススメする、あるいはやらせる場合が多い。「日本と中国の死生観の違い」みたいなドデカい・荒っぽいテーマじゃなく、「源氏物語における誰々の何々について−その呼称をめぐって」みたいな、そして「「源氏物語」中の○○という言葉を数えて統計取る」みたいな、細か〜いやつ。
で、「内容の善し悪し」は措くと、テーマだけなら、学会誌に載ってもおかしくないようなものになるわけです。

専門家の研究テーマというのは、言ってみればパズルのピースなんですね。空いているちょっとした隙間を埋めていくイメージ。「先行研究はいっぱいあるが、この部分については、研究がない」からこそ、テーマとして意義があるのです。

で、「マジメに指導している人」は、それを学生にもやらせようとする。「やらせる」というとなんだか人聞きが悪いですが、これはこれで、アリだと思います。悪いことは何もない。


しかし、ここからはあくまで個人的な見解というか好き嫌いですが、「隙間を埋める」作業に意味を見いだせるのは、「全体像」が掴めているからこそ、なんですね。
全体が見えているからこそ、「小さな小さな隙間を単純作業で埋める」ことが、どういう意味を持つのかを、理解できる。

しかしながら、卒論レベル・学部レベルだと、「全体像をイメージする」のは、なかなか難しいんですよ。
なので、自分がやった単純作業がどういう意味を持つのかが、あんまり理解できていない場合が多い。

実際、発表会の質問で、ちょっとこの「全体像」に関わること(「この作業で何が見えましたか」とか)を質問されると、え〜と、と固まってしまう場合が多いんですね。ものすごく極端に言っちゃうと、「先生に○○という言葉を数えろと言われたから数えました」みたいな(さすがにこれは悪い方に極端ですが)。


じゃあデカいテーマがいいかどうか、は、繰り返しますが議論があるところだと思います。「たとえ全体像が分からなくても、「論文」を書いたことに意義がある」というのは、アリです、たぶん。

で、悩んだ末に、オレは、デカいテーマをやれ、に一票。