ミソもクソも

看護する力と横浜での驚愕の出会いについて

…私は「網羅的な調べ物」というのができない人間だということをつくづく思い知る。
もちろん、たんに「無精」という資質のせいなのだが、きわめて興味深い人物の書いたもの以外にはまるっきりリテラシー装置が反応しないのである。
「ふつうの人が書いたふつうの文書」を前にすると、私の知的アクティヴィティの針は「ゼロ」の近くに貼りついてもはや微動だにしない。
社会学者は職掌上、「ふつうの人が書いたふつうの文書」に伏流するイデオロギー性や臆断を読みだすことが求められるので、そういうものを大量に読まねばならぬのだが、どれほど高額のバイト料を提示されても、私はそのような仕事には就くことができない。

ふとこの記事を思い出しました(し、「そうかそれでは、内田先生にとっては、学生のレポートを読んだり卒業論文を読んだりするのは、さぞ苦痛でしょうね」と嫌みを言いたくなったりします)が、オレは逆ですわ。「ふつうの人が書いたふつうの文書」を「大量に読」むことに生きがいを感じる方です。

だって、有名な作家の文章なんて、つまんないですやん。はいはい、あんたは偉いですよ、と流すのが吉です。

つまりは、オレにとって、他人の文章というのはデータなんですね。「こういう風に考える人が一人いました」という。それでいくと、まさに、内田先生の文章も学生の文章も、完全に等価です。

だからこそ、レポートを読むという作業に、けっこうやりがいを感じるんでしょうね。よしよしデータがたまってきた。