性格はどこまで可能か

今はこの本を。


パーソナリティとは何か―その概念と理論

パーソナリティとは何か―その概念と理論


ふだん何気なく「彼の性格はどうたらこうたら」とか、あるいはオレの専門の文学でも「彼はこういう性格だったからこういう文学を書いた」もしくは「彼がこういう文学を書いたということは、こういう性格だったのだ」なんてやっているわけですが、そもそも性格ってなんなの?それに実体ってあるの?と前々から疑問に思っていたのです。


もちろん、実感としては、AさんとBさんはパーソナリティが違う、というのは間違いなくあります。でもじゃあその違いを実体化しようとすると、すかさず堂々巡り、もしくはエッセンショナリズムに陥ってしまうのです。前者は、たとえば「彼はお年寄りに席を譲るから優しい」みたいなの。この場合、「優しいから席を譲る」のか「席を譲るから優しい」のかが曖昧だし、「今まで席を譲ったからこれからも譲るだろう」みたいな予言的な物言いになっちゃいます。後者は、いうまでもなく「彼はこういう性格だ」という決めつけは、いつ、どの時点で可能なのか、となると、なかなか難しい問題を孕んでいます。

これ、個人だけじゃなく、「国民性」みたいなテーマにも関わってきますよね。まあ一般的には、すくなくともアカデミズム界隈では「国民性」的議論はあんまりしないほうが、みたいな空気はあります。でも「日本人」と「中国人」は、まったく意味のない括り方なのか、両者にまったく差異はないのか、というとこれまた微妙です。まったく異なる経過を辿ってきた二つの地域における、それぞれの居住民の心性は、やっぱり違いがあるんじゃないか、でもその違いはどうやったら実体化できるのか、etc...

まあ、仮に違いがあるとして、「こういうキャラクターの人々が住んでいたから、こういう歴史を辿った」のか、「こういう歴史を辿ったから、そこに住む人はこういうキャラクターになった」のか、という、古典的な問題が立ち上がってくるわけですが。


……という問題もさることながら、この本、「動物に性格はあり得るのか」という問題にも触れていて、実はそっちのほうが面白かった。よく犬や猫には性格がある、といわれますが(飼ったことがないのでよくわかりませんが)、本書ではタコやヘビの性格分析が行われた、と書かれております。そうか、引っ込み思案のタコとかラテン系のヘビとかいるんだ。面白れー。

さらに、植物の性格分析についても、オジギソウを例に書かれていました。そうか、腰の低いオジギソウ・高飛車なオジギソウとかいるんだ、面白れーうっひゃっひゃ。


と、たぶんマジメな本書の意図とはまったく違うところで、一人楽しんでおりました。