ふたたび「主語、われわれ」

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080831/1220114988

元ネタ(なのか?)は廣松渉先生だったのですか。学がなくてお恥ずかしい。


僕も違う(そしておそらくは頓珍漢な)方向からこの問題について再び。


僕が「主語、われわれ」で連想するのは、(おそらく)高橋哲哉氏が言い出した「応答可能性」というやつです。(特に戦後生まれの)戦争責任について、「(被害者側から)呼びかけられたら、それに応じる責任がある」みたいなの。ちなみにこの主張には、あんまり同意できないのではありますが。「呼ばれたら、応えろよ」って、なんか恫喝みたいで。


さて僕も学校を例に取りましょう。教師が「みなさん、ここまでわかりましたか?」と言う時、生徒は「わかりますた」とか「わかりません」とか答えるわけですが、もう一つ、「そんなの知らねーよカス」(カスは余分ですが)と端から無視する、という「選択肢」はないものか、と。


以前、「戦時中の民衆」がテーマの本を紹介した時にもちょこっと触れたのですが、こういうテーマ、どうしても、戦争に対して「積極的に賛成」か「積極的に反対」か、どっちかしか触れられない。「どーでもいい」という反応の、完全に無関心な人々だって、一定数はいたはずなのに(というか、そっちの方が多数じゃないかと僕は見ていますが)。そういう態度が良いか悪いかは、また別として。


話を教室に戻すと、教師から「みなさん」とか「われわれ」とか呼びかけられた時、生徒の側に、それに積極的に関与するでも、積極的に反対するでもない、完璧な無関心を貫くという第三の道(なのか?)を残しておくのって、僕は大事じゃないかと思っています。


もちろんこれは「逃げ」とか「(自称)中立」とか、いろんな批判は寄せられるでしょうが、しかしひとまず・当座でも、そういう安全地帯を設けておくのって、けっこう助かる。

だって、力関係で言えば、明らかに教師の方が、上です。それに対抗するのは、容易ではない。もちろん、それに対抗できるだけの強い力を育てるのも教育においては大事でしょうが、一方で逃げ道を用意しておくのも、これはこれで大事。


……何の話でしたっけ。そうそうわれわれ。いやおれ、会議や集会で「われわれは、断固として、○○に対抗していくつもりです!!」「ワーーパチパチ!!」みたいになったとき、お義理で拍手しながら「別にオレ、対抗するつもりはないんだけどねー」と冷めた目で見ている、タチの悪い人間なので。