人文系学問の効用

『大航海』65号(ちなみに網野善彦特集)に川北稔先生の「歴史学は回復するか」という論考が載っておりました。

最初のほうで「人文学が、今後、生き残っていける道はあるのか。そのためには何が必要なのか。最も深刻な問題は、人文学が社会との接点を失い、独善的な価値観におちいったことである。」と述べていて、おっと思ったのですが、その後の議論の展開は、ちょっとげんなり。

つまりは、「日本の(特にイギリス史)研究は全然ダメだった、歪んでいた」という議論に終始しているわけです。これは、いわゆる「学問の現状に対するお説教」としてはもちろん有効だしごもっともなお話ではありますが、こと「人文学と社会との接点」に関する議論ということでは、おそらく何の解決の道も示せないと思われます。

じつは、わが研究分野の超大物・大御所の先生も、最近同じようなことを、同じような論理展開で書いておられました。これまた、学問的なお説教としてなら首を垂れて聞くしかありませんが、「社会との接点」的な議論としては、ちょっと違うよなあ、と不遜にも思ったものでした。


人文系、に限らず(たぶん多くの分野の)研究というのは、それが進めば進むほど、いわゆる「社会」とは乖離していく、という宿命を負っています。

で、理系(と一まとめにしていいかどうかはともかく、とりあえず)の研究であれば、社会と乖離しようが、一般市民に研究内容が少しも理解できなかろうが、全然かまわない。よく使われる例ですが、テレビがきれいに映るなら、あの箱の中がどういう仕組みになっているのかが全く理解不能でも、僕のような庶民は満足するわけです。

でも、人文系の場合は、そうはいかないんじゃないか。


たとえば、フェミニズム(ジェンダーでもいいですが)。この研究分野の最新到達点がどこにあるのか、正直わかりません。いろいろ読んではいるのですが、難しい。理解不能

まあこれはオレの頭が悪いだけなんでしょうが、ただ、フェミニズムジェンダーみたいな、人文系の中でもかなり「実践的」な学問分野において、その研究成果が一部の研究エリートのみに理解可能なジャーゴンとなってしまい、必ずしも十分に社会に流通できていないとするならば(という風に僕には見えます)、はたして研究が進むことは「良きこと」なのか、という疑問が湧いてくるのです(あ、いうまでもないですが、「だからフェミ研究に意味はない」なんてことをいいたいんじゃないですよ)。

文学も多分一緒。研究会とか学会誌とかの研究内容は、一般の文学愛好家の人が聞いても読んでも、全く面白くないものでしょう。「○○の文学面白い」と思ってその分野のアカデミックな研究会に出ても、おそらくちんぷんかんぷん。三国演義研究の雑誌とか見ていると、一般の愛好家がコレ読んだら、離れて行っちゃうんじゃないかなあ、と思えるような、マニアックな内容です(べつに、三国演義研究の方に恨みや文句があるわけではありませんが)。


冒頭の川北先生のお話に戻りますが、どうも先生(とわが分野の大御所も)は、「人文系の研究が正しい方向にどんどん進むことが、社会との接点を取り戻す方法だ」と考えておられるようなのですが、それはちと違うんじゃないか。「研究の進化」と「社会との接点」は、必ずしも相反するものではないだろうが、ただ前者が後者を無条件で導くような簡単なお話でもないんじゃないだろうか。少なくとも、とくに文学に興味があるわけでもなく、また将来研究者になるわけでもない学生や一般の方たちに普段教えている「現場」(あんましこの言い方は好きではないですが)の側からすると、こう思うのです。


なので、議論にするならば、「学問は、本当に社会と接点を持たねばならぬのか」とか、そういうほうが個人的にはスリリングであります。