恩師
土日はミニ研究会で、我が師匠の田仲一成先生をお呼びしました。
僕は、弟子とは行ってもその末端の末端、気軽に弟子などとは言えないレベルです。レベルの違いももちろんながら、全然違う分野をやっているし。しかも僕が習った学部時代、そんなに偉い先生だとはまったく知らなかったので、物まねをしたり、レポートもかなりいい加減に出しちゃったりと、まあロクな学生ではありませんでした。
なので教え子というのもはばかられるのですが、一つだけ、今のぼくの思想(なんて偉そうですが)を形作ったといえば、こんなところかな。
- 作者: 田仲一成
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 2000/10
- メディア: 単行本
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従来、王国維以来の近代的な文学観に立つ「中国戯曲史」の研究では、とりわけ元代の戯曲(雑劇)に対する評価が高く、これとは対蹠的に明清の伝奇戯曲については、あまり高い評価は与えられて来なかった。明清伝奇は長編の割に筋も人物も「忠孝節義」の封建道徳に副って造型され、甚だしく類型化していて、藝術的価値に乏しく「面白くない」と言うのが一般の印象であり、評価である。戯曲の存立している歴史的・社会的背景から切り離して、近代人の目で作品を印象的に批評すれば、確かにその通りであろう。しかし、戯曲作品を社会的・歴史的コンテキストの中で見れば、必ずしもこのような見方が当たっているとは限らない。[中略]演劇は、神々に捧げる祭祀の一部として、三日三晩、最後は徹夜で行われる。観客は女性、とくに中高年の女性で占められる。伝奇戯曲はその長さにおいて、この三日上演に適しているし、内容としても節婦の忍従犠牲の守節物語は女性観客の心に訴えるものを持っている。彼女たち、とくに高年の女性たちは、伝奇の節婦の物語に自己を投影し、主人公(多くは女性)の悲運に涙を流しながら、同じく苦難に耐えてきた自分の生き方が間違っていなかったことを確認して、そのことに満足し、神に感謝しているのである。もはや時代遅れとなったものであるにせよ、中国人自身がこの宗族概念(富貴利禄の思想を含む)に立って生活している以上、伝奇戯曲はその社会的機能を保持しており、その限りで戯曲としての生命を維持し得ることになる。一人で読んでは「面白くない」伝奇も、上演されると、観客の熱い反応を得て、忽ち精彩を発揮するのである。(pp.366-367)
実は僕も、ある作品が「芸術的価値が高いか」とか、下手すると「面白いか」についても、まったく興味がないのです。逆に、当時の「社会的・歴史的コンテキストの中で見」るのが大好き。
田仲先生もいっていたように、こういう研究は文学研究からは邪道とみなされがちですが、まあこういう研究が少しはあってもいいんじゃないでしょうか。
まあ僕と田仲先生を同列に見るなんて、おこがましすぎますね、やっぱり。