壁は乗り越えるためにこそ

金曜日の演習。例によって淡々と終わろうとしていた時(しかも発表者の一人がバッくれて、機嫌的にはあまり良くない授業でした)、ある学生が、「先生、さっきの読み、違うんじゃないでしょうか。わたしは、こうだと思ったのですが……」と、突っ込みを入れてきました。

ちょっと慌てて「いや、でもこれは……」とかいいつついろいろ調べて、「やっぱり、最初のでいいんじゃないのかなあ」といって、ちょっと議論になって、最終的にはその学生も納得したのですが、いやはや、この学校に来て、一番嬉しい瞬間だった、といってもよかったです。


こちらでも話題になっておられるように、教師というのは、まあ壁(もちろん、同じ壁でも、山本先生のような、チョモランマ級の壁もあれば、僕みたいに砂場の砂山程度のものもあるわけですが)であるわけです。ただ、かなり極端に言えば、壁は乗り越えられる/ブッ壊されるためにある、といっても過言ではない。壁が壁であると認識されるのは、それを乗り越えよう/ブッ壊そうとする人が現れてこそはじめて、です。


教師の説明でも本の記述でもいい、「それ、なんか違うんじゃないの?」というのを、一個でも見つけたら、それでもうその授業は終了、目的は果たした、といってもいいくらいです。そして教師は、時には「捨て石」になることも厭わない、そんな心構えも、必要なんじゃないか、と思ったりして。


……なんか優等生風の意見ですなあ。オレらしくもない。