中間組織

たまには本でも読もうと思って。


アソシアシオンへの自由

アソシアシオンへの自由


といっても、まだ数ページ目ですが。


最近気になるのは、日本って、「国家」と「個人」との中間の組織(みたいなの)が、なんで根付かないんだろうなあ、ということ。


少なくとも日本では、右も左も、信条としては、国家と個人の間に「なにか」を置く(置かれる)べきだ、と考える人がほとんどなのではないか、と思うのですが、実際には、なかなかうまく行っていない(ように見える)。例えば右は「家族」とか「地域共同体」(後者は左にもいそうですが)を置きたがるのでしょうが、保守派の必死の努力も虚しく(家族再生とか地域の目とか母乳で育てろとかなんとか)、今後再び「昔の状態」(本当に昔はそうだったかはとりあえずおいといて)に揺り戻されることは、まあ考えづらいでしょう。


一方左は、市民運動的な組織を置きたがるんでしょうが、これも、僕があんまりそういうのに乗り気じゃないからかもしれませんが、そういう意識が順調に育ってきている、ようには見えない。前にも書きましたが、バラバラな個人は、むしろ、そういう市民運動的なものに、忌避感を感じる傾向にある。

そんなこんなで、日本における中間組織は、良くて「現状維持」、まあ普通に見れば「緩やかな解体過程」なんじゃないかな、と思うのです。


なんででしょう。わかりません(アホや)。


ただ、僕はこの辺は門外漢ですが、日本ではこの部分、ちょっと前までは「会社」が占めていたんでしょうね。終身雇用という安定性、そして辞めてからも年金その他で面倒を見てもらう。つきあうのは会社の中の人とだけ。まあある意味楽といえば楽な人間関係だったわけです。


それが崩壊(まあさすがに、「昔のような会社組織を再生しろ」という意見は、左右ともども、それぞれの思惑から相当少ないでしょうし、また望んでも無理な話ですが)して、さてじゃあなにか新しい組織を……と思っても、そう簡単に代替物は探せない。「お年寄り・親を大切にしよう」みたいな価値観はとうに崩壊しているし、そもそも日本に欧米的な「家族(を大切に)」概念があったかも疑問です。かたや市民運動も、なんかお仕着せの、舶来モノ的な匂いがする。ちょっとそういうの苦手だし…


そんなこんなで、日本での「個人主義的傾向」は、今後強まりこそすれ、弱まることは考えづらいと、「個人的」には思っています。で、これも「個人的」には、そんなに悪いことではないんじゃないのカナー、と思うのですが、ただ右はもちろん、左も、「バラバラの個人が、結局は国家に救い上げられて……」みたいに、こういう個人主義をネガティブに考える人が多そう。


でもねえ。無理して習い事をしても続かないのと一緒で、無理に「運動」に入ろうとしてもねえ…


同書によると、おフランスでは、「結社の自由」を勝ち取るためにさまざまな議論・運動があって、ようやっと手に入れたものなんだそうですが、日本では、もしほっといたら、「結社の自由なんて、べつにイラネー」なんてことになってたかもしれませんね。