運動と研究

これは「うちの誰々という学生」という話ではなく、あくまでも一般論です。


院生なんかで、「慰安婦問題のPRについて研究したい」みたいな学生さんがいたりします。聞いてみると、そういう活動にも積極的に参加しているとのこと。研究内容も、「どうすればもっとPRできるか」というもののようです。


ここで、う〜ん、と、唸ってしまうのですよ。


とはいえ、まず前提にしておきたいのは、研究と運動で、どっちの方が上とかまともとか、そういうものではない、ということ。どっちも重要だと思うし、むしろ自分が研究の側にいるためか、机上の空論を弄ぶより、実際に活動している人たちの方が、よっぽど有用だよな、と思うこともしょっちゅうです。

また、研究と運動は、決して相反するものではない、というのも前提。しっかりした研究をしながら、運動にも積極的に携わっている人も、いるでしょう、きっと。


しかし、完全に重なるものでもない、というのも、確かだと思うのですよ。


研究には、やっぱり、客観性がなによりも大事だと思います。もちろんここで、「客観性って何だ、そういう〈神の視点〉などありうるのか?」とか「客観性なんて、所詮は〈文書中心主義〉〈男性中心主義〉の賜物じゃないのか?」とか、様々な批判が雨あられと降ってくるのは十分予想されるし、そういう批判に根拠がない、というわけでもありません。


しかし、結果はともかく、やはり研究対象との距離を十分に意識し、相対化する、そういう視点を持とうとするのは、絶対に必要なことだと思うわけです。


先の学生も、もちろん運動に参加しつつ、運動自体を観察する、ということは十分可能だし、むしろ参与したほうがより面白いデータや事例を引っ張り出せるかも知れない。ただそれでも、「ノリつつ醒める」ことは、必要だと思います。調査・観察する中で、運動する側にとって不都合なデータや情報も、出てくる可能性もある。それでも、それを隠したり見ないふりをしたりするのではなく、事実として提示できるか。そこにかかってくるんだと思います。


……とか説明して、分かってくれるか、なあ。