死後の世界

来年、「中国ホラー映画考」的な講義を行う準備にこの手の映画をあれこれ見たり、また「中国人の死生観」的な本をあれこれ読んだりしています。

こういう作業自体は結構面白いのですが、それにしても思うのは、「死後の世界なんて、どーでもいいのになあ」ということ。

僕個人についていわせてもらえば、死んだあとどうなるかなんて、それこそ死ぬほどどうでもいいのです。どこに祭られるかとか、どういう葬式をするかとか、本当にどうでもいい。それこそ、極端な話、死体をゴミとして捨てられても、それはそれでかまわんと思ってます(まあ本当にゴミにされたら、「ああ、おれって、やっぱりなんの人望もなかったんだな」と、死ぬ間際に別の意味で哀しくなるとは思いますが)。それも、仏教的に「死んだらその肉体はすでになんの意味もないから……」という観念から「ぜひ捨ててほしい」というほどのもんでもなく、たんに興味がないだけです。

親族に対しても同じ。墓参りなど、子供の頃有無をいわさず連れて行かれた(それがいやでいやで仕方がなかった、というほどの思い入れもなかったのですが)、それ以降は、1度も行ってません。この先両親が死んだとして、まあなんか言われるのはいやだから必要最低限のことはしようと思っていますが、できれば最低限に止めたい。そんなんでカネをつかうのは本当に勘弁です。「人でなし」といわれるかもしれませんが、興味がないものはしかたありません。


さて、「日中の死生観」的なお話だと最後は靖国問題で締めるのが常ですが、まあ実は正直、この問題に、あんまし興味を持てないのはこのへんにあるんでしょうか。実際、参拝賛成派にしても反対派にしても、なにをそんなにしゃかりきになっているのか、どうにもわからんのですよ。「祖先に感謝の念を示すために……」とかしたり顔でのたまうのもうんざりですが、合祀とか分祀とかで揉めるのも、まったくわからん。この近代社会で(水伝とか小太りの霊能者とかがいまだにもてはやされているとはいえ)、なぜ「死者の慰霊」なんてのにそんなエネルギーをさかねばならんのか。


そういうのにこだわる人とか、その信念とかを、バカバカしいと否定しようとは、まったく思いません。本人(とその遺族←こっちはやや微妙だとは思いますが)の意志に反することが行われている、例えばむりやり合祀されている、ぜひ分祀してほしい、こういう気持ちは、絶対に尊重されるべきだ、というのは前提条件です。ただ、それはあくまで「自分のことは自分で決められる」という原則からのものであり、それを宗教的信念みたいなのに還元されるのはごめんです。僕自身は、自分が死後に靖国に祭られようが妻方の墓に祭られようが鳥葬にされようが、どうでもいい人間なので。


……などと考えながらホラー映画見てます。やっぱ林嘉欣(Karena Lam)可愛いわ。