左派とリベラル

ううむ。

子どもの暴力 学校だけの問題ではない
http://www.asahi.com/paper/editorial20060915.html#syasetu2


いわゆる左派・リベラルとされる朝日にしては、だいぶ「保守的」な印象を受けます。「荒れた小学生は、中学校でさらにひどくなる恐れがある。いまのうちに芽を摘んでおく必要がある。」なんて、とくに。


真のリベラルだったら、「学校など行かなくてもよい」というイリイチ的な「脱学校の社会」(あるいは「学校のない社会」)を目指すのが筋なんじゃないのかなあという気がしています。この「脱学校」、かな〜り前に流行って、それっきり、という印象です。しかし学校というのは、どんなに教師が「良心的」であっても、それが「義務」である以上は、必然的に権力関係の温床になってしまうものです。「いまのうちに芽を摘んでおく必要がある」なんて、なんだか「割れ窓理論」を聞いているような気分です。


この反論としては、「行きたくなきゃ行かなくていいよ」というのは、結果的に、今ある格差を再生産ないし拡大してしまう、というのがあります(ex.齋藤貴男)。これは、事実ではあるのでしょう。ただしかし、「(学ぶ意味も内容も分からず/分からせず)とにかく行かせりゃいい」という考えは、それは結局、「ボランティア」的な強制労働と、本質的なところではあまり変わらないのではないか、だったら、それこそ(たしか)イリイチが主張するように、「学びたい時に、学びたいものを、学ぶ」というシステムを構築する方が、よっぽど「リベラル」な方向なのではないか、と思うわけです*1


また、今あるシステムだと、教師にあまりに負担がかかりすぎ・高い能力を求めすぎです。「先生可哀想」というだけでなく、そもそも、日本に何十万といる日本の教師全員が、そんなに高い人格や能力を有していると前提する方が間違っています。教師一人一人が努力するのは大切としても、ごく普通の教師でも実行できるような、緩〜いシステムじゃないと、まさに絵に描いた餅に終わります。


でもこういう「学校の役割を縮小」系の議論は、権力を見せびらかしたい右派のみならず、日教組的な左派からも、「既得権益の縮小」という点で、あまり受け容れられないんでしょうね。と推測。とか考えていくと、やっぱり「左派」と「リベラル」って、一括りにされがちで、実はけっこう遠いものなのかも、と、ヘタレ・ノンポリ教師は思ったりするのでした。

*1:ちなみに、齋藤氏的な、「とにかく行かせろ」的な主張は、結局は、既存の学校−企業システム(少しでも良い学校に入ったものが、良い企業に入れる、のような)をこれまた(拡大)再生産するだけなのでは、という気がしています。「それでいい」ならいいのですが、でもいっぽうで「大企業に牛耳られるシステム」を批判しておきながら、いっぽうで「将来に備えてとにかく勉強しろ」というのは、ポール・ウィリス的「に正面作戦」といえばいえるのかもしれませんが、やや腑に落ちないところはあります。