ところ変われば認識変わる2

先日のつづき。

『国境を越える歴史認識』の13章、川島真「歴史対話と史料研究」では、日本からの歴史認識発信の重要性、あるいは危機感を、たんなる煽り(「このままじゃ声の大きい中国に負けちゃうぞ!!」みたいな)ではもちろんなく、的確な現状認識の元に訴えているわけですが、実は「日中間の歴史認識の違い」は、皮肉なことに同書12章の楊志輝「戦後賠償問題から戦後補償問題へ」によく表れています。同論文では、近年中国で噴出しているいわゆる戦後補償の問題を、「民間からの動き」として肯定的に捉えています。

 中国人戦後補償訴訟の提起で、中国政府は今、一つのジレンマに陥っているようだ。日中国交正常化の過程に対する検証で明らかになったように、中国政府は日中共同声明をもって未来志向の日中関係を切り開きたいと考えていた。国家間の賠償問題は解決済みで、それを反故にすることは国家間の信義にかかわる問題である。この考えは全人代で一部の人民代表が提出した賠償請求の提案を受理しなかったことにも表れている。しかし他方、改革・開放政策がとられ、グローバル化が進んでいる現在、もはや毛沢東時代のように、国民の声を完全に抑制することもできなくなった。
 また、それ以上に、中国政府は「中日の友好的な協力関係を発展させていく」方針を強く持っている。現在の胡錦涛政権も、今後も日中共同声明、日中平和友好条約、日中共同宣言(1998年)を日中関係の基盤にすえ、「対話と対等な協議を通じて両国間の不一致を適切に処理し、幅広い分野で両国の交流と協力をさらに深めていく」考えを強く打ち出している。中国政府にとって、過去の歴史に言及したのは、「恨みを抱きつづけるためでは決してなく、歴史を鑑とし未来に向かうため」である。

「民間とかいっても、結局は共産党の言い分そのまま垂れ流しているだけやんけ」とか、そういうレベルの不満はひとまず措きますが、ここでは、2つの疑問点を指摘しておきます。


1.「政府・国家」/「民間」という素朴な二分法。
この論文では、政府間では解決済みとされた戦時賠償問題に対し、被害者個人による賠償請求という「民間」からの動きを、好意的に論じています。しかしこの動きが問題化する時には、たんなる「民間の声」ではなく、すでに高度に政治的された問題となっているのです。べつに「裏で共産党が操っている」とかいうものではないですし、また民間からの声など無視しろというわけでももちろんないですが、しかし川島氏が「歴史対話と史料研究」の注5で指摘するように、「[中国では]こういった個人賠償に対する日本の各級裁判所における判決もまた、(……)原告勝訴だと日本が屈服して歴史認識を改めた証拠とされ、敗訴だと歴史認識の誤りの証拠とされ」てしまうわけです。単純に「民間の声だから望ましい」といってすませられない問題がここには潜んでいます。


2.中国における「政府・国家」/「民間」の関係
1とも関連しますが、日本(や西洋)においては、少なくとも「市民運動」の分野では、〈民〉を〈国〉*1の対抗物として措定しているのに対し、中国の〈民〉は、どちらかというと〈国〉を補強するものとして作用してしまっているのです。ここでも書いたように、〈民〉の動きを〈国〉が体よく吸収してしまうという図式。元慰安婦などの声も、(それがウソだとかインチキだというつもりはまったくありませんが)中国では〈国〉を強化する方向に働いてしまうし、いっぽうで「本当に〈国〉に対抗している」といえそうな「土地を奪われた農民」などの声は伝えられることはありません。いや、伝えられてはいるのですが、例えば日本でも話題になった『中国農民調査』(ISBN:4163677208)の結論部分のように、「悪いのは地方政府であり、中央政府は我々を救い出してくれる」みたいに、どっちに転んでも中央政府は無傷ですむわけです(同書はそれでも発禁になったわけですが)。


なお余談ですが、中国では『中国農民調査』あたりからこの手の農村ルポが大流行していて、「中国の人々は三農問題について深く考えている」と好意的に評価する向きもみられますが、この現象はあくまでも、その手の出版物が都市住民の間での消費物として、我々が日本のテレビで「アフリカの飢えた子供たち」を見て「可哀想にねえ」とか同情するのと同じようなネタとして、流通している、とみるべきじゃないかと考えております。


さて、日中の歴史研究においては、中国側が、上の楊論文にみられるように、あくまでも「正しい歴史認識」がある(そしてそれはほとんどの場合「中国(政府にしろ民間にしろ)の歴史認識」なわけですが)という立場なのに対して、日本は(というか川島氏などは)、各国において「正しい歴史認識」をめぐる闘争が行われつつある、という立場を取っています。一見、史料という「共通言語」を持ちながらも、結果的には(今のところは)それが「国境を越えた歴史認識」にはつながらず、「国境を強化する歴史認識」になってしまっていると。
こうみてくると、歴史認識においては、中国よりも日本がメタの立場にいるわけで、その意味では日本の方が「進んでいる」わけですが、だから日本はスゴイとか偉いとかそういう話にはなりません。というかなるかもしれませんが、そういう評価自体、今の状態ではあくまで日本国内限定のものになるほかありません。「日本の歴史研究は進んでいる」という評価を下す「全球的」な視点というものが存在しない以上、何らかの形で発信性を強めない限りは、「日本の中国史研究」どころか「日本の日本史研究」さえもが中国発の情報にかき消されてしまうのではないか、という懸念もあるわけです。こういう懸念はもちろんこれ自体政治性を持つものかもしれませんが、しかしそれは「日本の学問の中立性を守り、そのことを発信する」という純粋に学問的な要請から来ている、と取ることも可能でしょう。


さてid:almadainiさんから頂いたコメントにもあるように、日本人研究者は(僕もそうですが)基本的に国内完結型の人が多く、「別に発信できなくてもいい。オレはオレの真理をあくまで追求していく」みたいな職人気質の人が多いように思います。「オレの論文読みたきゃ日本語勉強しやがれ!」みたいなある意味カコイイ人は、確かによくいます。とくに日本史や日本文学やっている人は、「なんで日本のことやるのに、外国語勉強しなくちゃならないんだ。そんなヒマがあったら史料読んでる方がよっぽどマシだ」と公言する人もいますし。
というかalmadainiさんは世界で活躍する研究者ですからこんな悩みとは無縁だろうに。


疲れたのでこの問題はまた今度。

*1:本来は〈公〉にするのがいいのかもしれませんが、中国の〈公〉と〈私〉とかいうとまた面倒くさいし僕の手には余るので、ここでは〈国〉にしておきます。