レッテル張り

「そこに“日中関係本”があれば読んでしまう」neto氏に習って、最近この手の本をあれこれ読んでいます。


しかし、特に中国人が書く「日中関係本」って、どうしてこう、「中国人はこうで、一方日本人はこうだ」と決めつけたがるのでしょう。


たとえば王雲海『「権力社会」中国と「文化社会」日本』(ISBN:4087203484)。タイトルからしてそういう臭いプンプンですが、中身も全編これ「中国(人は)こうだ、それに比べて日本(人)はこうだ」の繰り返し。しかもそれが、著者は否定するかもしれませんが、「中国人はこんなに素晴らしい、それに引き替え日本は……」という方向で貫かれています。たまに中国側への注文が書いてあると、「中国は、日本が中国を尊敬し、自分から歴史問題で謝罪するような、強い国を作るべきだ」みたいな「富国強兵意識」だったりします。著者は中国人の愛国心を相対的に弱く見積もっている(弱く見せたがっている)のですが、こういう意識自体が「愛国意識」そのものです。


と、まあこの程度の苦情は誰でもいくらでもでてくるだろうし、また「中国人はこうで、一方日本人はこうだ」という認識の枠組みがまったく無意味というわけではありません。僕だって、「特に中国人が書く「日中関係本」って、どうしてこう……」という具合に、コレを使っていますしね。


しかし、「A国人はこう、B国人はこう」というのは、はたしてどの程度有効なんでしょう。例えば、同じ日本人の「Aさんはこう、Bさんはこう」というのと、どの程度違うんでしょう。


また、著者はその違いを「社会体制の差」なのではなく「文化の差」によるものだとしているのですが、じゃあその文化の差はどこから来たのでしょう。「いや、それは、社会体制の差から……」みたいな循環論法にしかなり得ないと思うのですが。だったら、「中国人は部屋の中で靴を履き、日本人は脱ぐ」みたいな目に見える事例を細かく集めていく方が、相対的にはまだ有意義な気もするのですが。


どうも昔から、「関西人だから……」「長男だから……」みたいなレッテル張り(セルフイメージも含めて)が、妙に嫌いでして。