中国における右/左

人によっては「今さらそんな当たり前のことを……」というネタでしょうが、まあ個人的な確認ということで。


作文コンテストで、「○○について」というお題が出ると、応募してくる作文のほとんどが「広辞苑で○○を引くと……」という書き出しである、というのをなんかで読みました。とはいえ、一応確認しておくと、辞書的な意味では、「右翼」は「反共・国粋・保守」がキーワード。一方左翼は「革新・急進・共産」です(こういうカテゴリ自体の無効性はまた今度取り上げます)。

しかし、この図式は、日本にはまあそれなりに当てはまるかもしれませんが、中国ではちょっと難しくなってきます。中国共産党は、「共産」というキーワードではいうまでもなく左翼に当たるのでしょうが、しかし今の中国共産党は、「国粋」(←この語の定義も厄介ですが、とりあえず「国家主義」としておきます)に至上の価値をおいているであろうからです。


さて、例の「中国言語表象論」では、テキストとして、劉文兵『映画のなかの上海』を使っています。戦前の中国映画について(日本語で)書かれた本としては、今のところピカ一だと思います(ただし、うちの学生にはちょっと難しかった。昨日書いたように、ほとんど理解されていない様子)。

その123頁に興味深い指摘が。ここでは、『新女性』(1934)と『国風』(1935)という、二つの映画について触れられています。前者は左翼の映画人(とされる人たち)による「左翼映画」。後者は、国民党の新生活運動のプロパガンダ映画ということで、まあ「右翼映画」です。
政治的スタンスでは対極にあるといえるこの二つの映画なのですが、実は、ともに同じ女優(阮玲玉)が主演です。しかも、込められているメッセージも、驚くほど似ている。どちらも「風俗的なモダニズムを糾弾」する映画です。『新女性』が、その名の通り「新しい(自立した)女性」*1を目指しているのに対し、『国風』は「中華文明の優秀性と伝統的な倫理観の再教育」に価値を置くというふうに、ベクトルは正反対である、としても。そしてその行き着く先、つまり、なぜ「(西洋文化的な)モダニズムがダメか」というと、「強い中国を作るため」です。どちらの映画も、その思想を突き詰めていくと、結局は「国粋的」な思想に行き当たらざるを得ない。


この時代の映画や小説を見ていると、その政治的スタンスの違いにもかかわらず、メッセージはほとんど同じ、区別が付かない、というのは、よく言われることです。いや、よくは言われていないか。この「左右の違い」を細かく細かく見ていく(そして左がいかに右よりすぐれていたかをほじくり出す)のが、中国現代文学研究の主潮流だったのでしょうから。しかし、両者ともに、突き詰めて行くと、いわんとするところは「国民国家建設」に行き当たる、という点ではほとんど同類項です。


そして、この「国民国家建設の欲動」は、おそらく現在にいたるまで、脈々と続いている、ということは間違いありません。以前、「日中韓ナショナリズム比較」みたいなシンポで、韓国のパネリストが、「日本とは違い、我々にとって、ナショナリズム建設はまだまだ途中なのです。だから、簡単に「脱ナショナリズム」とはいかないのです」みたいなコメントをしていました。韓国など、(もちろん「統一」という大きな課題は残っているとしても)ナショナリズムはもう十分だろう、そろそろ休んだら?とか思うのですが、彼らの中では、「国民国家建設」はあくまでも「未完のプロジェクト」なんだろうなあ、と思ったものでした。


おそらく、中国も同様なのだと思います。中国の、特にいわゆる「知識分子」は、「我々は発展途上の国家なので……」とよく言います。もちろん、そういう言い分は分かるのですが、しかしここにはもう一つ、「自分たちはいつまでも発展途上のままでありたい」という欲望も、隠されているのではないでしょうか。「国民国家建設」という、結局のところは最終到達点などどこにもない見果てぬ夢に向かって、永遠に突き進みたい、という欲求。彼らからすると、「脱ナショナリズム」は、受け入れがたいものなんだろうなあ、と。


そんな中国の知識人と、彼らに親和的な日本の「左翼」が出会うと……というお話はまたいつか。

*1:ただし、この「自立」も、最終的には「国家建設」へと回収されてしまいます。そして、「本当に自立しているのであれば、モダンな生活を送ったっていいじゃないか、自由じゃないか」という問いは、完全に捨象されているわけです。