無からは何も産まれない

最近、大学では、学生に自由に課題探索・プレゼンさせるというゼミ形式が流行ってきていると思います。


これには、大講座制や、大学の授業の「実学」指向みたいなのも影響しているんでしょう。前者は、つまり、「中国文学」にまったく興味がない学生たち(これ自体は、別に「悪い」ことではありません。僕も、例えば経営工学や地方財政学になどまったく興味がないですが、「それはお前の怠慢だ」といわれたら「んなことはねえよ」と反論しますし)に対して中国文学教師が何らかのゼミを行わなければならない、という時には、はっきりいってこれしかやることがない、という理由があります。後者は、とりあえず多くの場合に要求される「プレゼン」の経験を積む、というのもあるんでしょう。


で、昨日、僕自身がそういう委員会(「FD委員会」というもっともらしい名の「授業参観委員会」)に入っていることもあり、「課題探求型(と呼んでいるんだそうで)」のそうしたゼミを参観したのですが……


「無からは何も産まれない」ということを実感。


そのゼミは4〜5人のグループに分かれて、課題を見つけ、週1回プレゼンする、という形式でした(一応、「環境問題」という大きな課題は与えられているようですが)。で、そのプレゼンはというと、まあちょっと、正直、「小学生の自由研究に毛が生えた程度」としか形容できないものでした。近所のお店にインタビューって、それオレも小学校の時にやったな、と懐かしくも哀しく思い出されたり。「河川の状態を調べるため釣りに行ったけど釣れませんでした」ってそんなのどーでもいいよ、だし。


これには学力低下とか絡んでいるのかもしれませんが、それよりも何よりも、「○○について、調べる」という一手間をまったくかけていないことによるものです。そりゃ空っぽの状態でプレゼンやれ、と言われても、こんなことしかできませんわ。担当教員は、「最初にパワポの使い方をみっちりレクチャーしました」といっていましたが、教えるべきはそこ(だけ)じゃないだろ!です。


いや、知識がなかったり頭が空っぽなのはいいんですよ。僕だって、「今この場で、環境問題についてのプレゼンをやってください」と言われたらできるわけがありません。「草花に話しかけたら、生育はどう違ってくるんでしょうか」(実は昨日のプレゼンでの実例)ぐらいしか。

だからこそ、調べるわけです。図書館でもいいけど、まあネットでもいいや。そんな資料など、ごろごろ転がっているでしょう。

もし調べ方が分からなかったら(まあいきなりはわからないでしょうから)、教師に聞く。教師も、パワポの使い方よりも、教えるべきはそこでしょう。


どうも担当教員の話を聞いていると、発表の「内容」は二の次三の次、下手すりゃ「どうでもいい」らしく、「楽しく」とか「充実感」とか「自分を変える」とか、なんだか自己啓発セミナーと勘違いしているんじゃないか??と思われます。なんかこう、「学生に楽しい4年間を送らせる」、と言うのを本気で目標にしているような。こんなんで4年間を過ごしたら(実はうちの大学も、学科・教員によっては、専門ゼミでもこういうのをさせているんだそうで)、まあ楽しい人は楽しいかもしれませんが、頭の中は空っぽのまま出ていくことになるでしょう。


空っぽでもいいというならいいのです。実際、空っぽだって普通に生きていけるし、変なことに思い悩むこともなく楽しい人生を送れるかもしれません。しかし、一応大学に来ている以上、とりあえず(パワポの使い方以外に)何かは蓄積していくことが大事なのでは?と思うのですが。


相当に脱力した授業参観でした。


【追加】
そうそう、こういうゼミ形式が流行る一番の理由を忘れていました。「教員が楽」。これに尽きます。僕自身がやったことあるから分かりますが、予習も何も要らない。適当に学生同士で「議論」(というか「しゃべり場」というか)させて、最後にもっともらしい蘊蓄を一発かませば、教師の威厳も保てる(ような気がしてくる)。でも、これじゃあかんです。ほんと。

【追加2】
僕が脱力したのは、学生の発表内容以上に、「担当教員(FD委員会のトップ)が、これを、「良い授業」と思い込んでいる(らしい)」ということでした。話を聞いていても、「これが授業の未来形」みたいな言い方をする。驚愕。もし僕がこの授業を担当していて、こんな授業を他の先生に見られたら、学校内ではちょっともう顔あげて歩けないですわ。この教員の専門は化学だそうですが、こんな授業するより、普通に化学教えたほうが、よっぽど学生のためになると思うのに。