ごちゃごちゃと

 中国に関することを(特に教養などで)大学で教える意義としては、ややこじつけとも思える分野もあるものの(人文系とか)、「将来、中国企業と取り引きする、あるいは中国企業で働く、という時のための中国理解」といったところでしょうか。日中友好とか文化交流とかいっても、(ごく一部の人以外は)それだけで生きていけるわけではありません。むしろ、「商売のための文化交流」と割り切る方が、より一般的な意義を持つと思います。だから僕も、教養の中国語を教える際には、「これからは嫌でも中国と交流していかなければならないし、みなさんが企業に就職してから中国企業と交渉とか、あるいは中国企業と合併とか、最初から中国企業に就職、ということだってあるでしょう。そのためにも、しっかり中国語を習っていた方がいいですよ」と脅しをかけるわけです。


 とはいえ、教える上で結構困るのが、中国に関するネガティブな部分をどう教えるか、ということ。僕は中国人と商売ごとの交渉をしたことはないですが、周りの話、例えば妻などの話を聞くと、まあ「日本とは違う」わけです。こっちの常識が向こうではまるで通じない。日本を基準にして考えると、向こうは想像を絶する「いい加減」な、あるいは「やったもん勝ち」な世界です。

 僕は、中国という国の矛盾は、日本とは比べものにならないくらいに巨大なものだと思います。こういうと必ず「日本だって負けず劣らず……」という意見が出るものですが、日本なんてもんじゃありません。一党独裁、貧富の差、環境問題……どれをとっても、メガトン級の問題です。それらを一党独裁により覆い隠している(覆い隠そうとしている)、しかし市民も、問題を薄々(あるいはたっぷりと)気付いている。だからこそ、やったもん勝ちのアノミー状態になるわけです(日本もこのアノミーが徐々に広がっていますが、中国ほどではないでしょう。なお、「アノミーでいいじゃん」という意見もあるにはあるでしょうが、やはりそれは(アノミー状態でも生きていけるような、あるいはアノミー状態でより利ざやを稼げるような)「強者の意見」だ、という感は否めません)。

 
 もちろん、「文化や常識が違うのは当たり前。だからこそもっと交流が必要なんだ」ということはいえます。事実そういう面もあるでしょう。ただ、あまり中国の「怖さ」を教えてると、学生がますます中国から離れてしまう、というジレンマもあるわけです。中国研究者が中国を褒めなくて、誰が褒めるんだ、というのも、ほんのちょっとあるし。かといって、「商売のためには、向こうの矛盾には、目をつぶりましょう」というのも、どうも。


 そもそも、中国でのビジネスということでは、つねに搾取という言葉が頭をよぎります。民工をタダみたいな金で働かせることで、利ざやを得る。もちろん、商売が進まなければ、民工はその「タダみたいな金」すら得られないんだ、ということも一面では真理であるんでしょうが、ただそれはやはり、「現実に合わせて、原則を変える」みたいな、「だってしょーがねえじゃん現実がそうなんだから」みたいなのがあって、今ひとつ同意できません。


 とはいえ、こういうのはそれこそ「理屈や同情だけでは生きていけない」わけです。例えば学生が企業に就職して中国企業と取り引きする時、どうすりゃいいのか。向こうの搾取に同情して、向こうの言い値そのままで買って、「その金で、従業員に報奨あげてください」とでもいえば、気が晴れるのか。それとも、「こんな搾取をする会社とは、取り引きしません」といって席を立てばいいのか。んなことできるサラリーマンはいません。結局は、少しでも安く仕入れるために、あれこれ交渉するほかない。

 そんなこんなで、「搾取がダメ」とかのんきに言っていられるのは、学者さんか、あるいは非営利団体ぐらいになっちゃうわけで、しかもそういう意見は、社会に対してはほとんど影響力を持たないわけです。

 「ごちゃごちゃいってねーで、あるがまま、感じたままを教えればいいじゃん」、といわれれば、まあそうなのかもしれませんが、う〜ん、ごちゃごちゃ。