ふつーの

 こないだの話に戻るのですが、なので、教師なんて、良い意味でも、悪い意味でも、フツーの人間なんですよ。そこらにいるおっさんおばさんと一緒。

 で、最近の議論を見ていると、「愛国心などのこころの教育」を主張する者にしろ、「愛国心とかそんなものに惑わされないような、自立した個を育てる教育」(あるいは職業教育とか)を主張する者にしろ、どっちも教育を、じゃないか、教師を、過大評価しすぎです。

 仮に、例えば、「愛国心教育」が素晴らしいもので、それを身につければ良い人間になれ、さらにそういう人間が増えれば良い国家になる、とします。で、政治家とか官僚がそれを各教育委員会、そして末端の教師に「こういう教育をしろ」と伝達していくわけですが、その過程で伝言ゲームのようになって、最後には当初の理念とは似ても似つかぬものになることは必定。これは別に、教師がイデオロギー的に妨害・拒否するのでなくても、仮に教師がそれに賛同していたとしても、必然的に起こりえます。ふつーのおっさんおばさんが、崇高なる愛国心とか、職業に役立つスキルとか、そんなのをひょいひょいと教えられるわけがありません。

 なので、教育改革を唱える方々は、ぜひ、ふつーのおっさんおばさんでも実現可能なものにしていただきたく存じます。


【ついか】
しかし今さら思うのですが、世の中のほとんどの言論には、もう最初から、「色」が付いちゃっているんですよね。

また朝日か」「また産経か」「また町山か」「また2chか」etc...

だから、個人でブログをやろうと思って、しかもちょっと政治について書こうとすると、

「あ、あなたは嫌中韓6割、愛国心3割、反ニート1割ですね、ではこちらへどうぞ」

ともう勝手に色づけやコース割が行われてしまう。「いや、ちょっと微妙に違うんだけど……」という細かな差異など完全に無視されます。

なんかやりづらいですよねー。僕のような「中間派」は。


【ついか2】
コメントをいただいて考えた点。

例えば、人間は、(少なくとも今の日本では)「思うこと」は自由です。「韓国人を差別しろ」とか「女はアホだ」とか、心の中でそう思うのは勝手です。今のところは。

しかし、そういう「言動」を実際にとると、いろんな形で制裁を受けます(たぶん)。

(匿名)ブログって、この両者(「思うこと」と「言動」)の中間に位置するものだと思うのですよ。中間よりは「言動」側でしょうが。町山騒動で、元のブログ主さんが何度も主張している「わたしの考えることを書いて、何が悪いの?」というのは、「わたしが心の中で勝手に思って、何が悪いの?なんで責められなきゃいけないの??実際に誰かを差別したわけでもないのに」ということ。「実名で言わないなんて、卑怯だ!」という考えももちろんアリでしょうが、しかし匿名というのは、「これは私の「言動」ではなく、「思うこと」の部分」ということの表明でもあるわけです。逆に言うと、実名を出した途端に、これはその人の「言動」になるわけです。

もちろん、「思うこと」だって批判していい、批判すべきだ!という意見もあるでしょう。しかし「こう考えるべきだ/こう考えてはいけない」という指導・教育をする、ということは、禁断の「心の教育」に手を出すことだ、と思うのです。

「心の教育、いいじゃん!」ということなら、これはもう全て解決します。


【ついか3】
いや、この「匿名ブログは「思うこと」なんだ論」はあくまで僕の論(もしかしたら、例のブログ主さんも同じ意見?)に過ぎませんね。だからこれを根拠にあれこれいっても、実証したことにはなりません。というか、「匿名ブログだって「言動」なんだ論」を主張する方々(この両者の割合って、半々ぐらいでしょうか)とは、やはり衝突するわけです。

かたや、「匿名だって、言論に責任を持て」という人、かたや「匿名で好きなこと書いてるだけなのに、なんでそれにいちいち噛みついてくるかなあ」という人。まあ噛み合いそうにありませんね。それでもいいのかも。