マヨネーズ

 高知の人って、マヨネーズ好きが多いと思うのは、僕だけ?

 回転寿司に行っても、ネタにマヨネーズがかかっている率が、かなり高いような。

 こないだも、サーモンを注文したら、有無を言わさずマヨをかけられて、がっかり。いや、いらないです、って言う前に、もうかけられていたもので。

 別にマヨが嫌いではないのですが、寿司にはねえ、う〜む。


 こないだの続き。

 オレらが高校の時と、今の高校生では、何が変わったのか。それは、「選択の幅が増えた」ということだと思います。

 オレらが学生の頃は、基本的に、「学校に行かない」という選択肢はなかった。今でも覚えているのは、確か僕が中学の時、いじめが原因での自殺が何件か続いたことがあったのですが、テレビのコメンテーターの一人が「自殺するくらいなら、もう学校など行かなきゃいいじゃないか」といったら、他のコメンテーターが「いやーそれは……」「それは極論ですね」などと言われていたこと。この頃はまだ、「とにかく学校へは行け!」というのがもう絶対の前提条件としてあったのです、たぶん。

 それが今はどうか。「イヤなら学校など行くな」というのは、もう別に珍しいことではなくなりました。高校を中退して仕事したり海外に行ったりという話も(とくに成功談として)よく聞くし。「学校教育など、屁ほども役に立たない」なんてのは、むしろそう思わない人の方が少数派(教師ぐらい?)でしょう。


 だからこそ、モヤモヤが溜まるんだと思います。そう、行かないという選択肢もある、学校へマジメに行くなんてバカだ、負け組だ、でもオレは行かなきゃいけない、行かないという選択肢は選べない、そこまでの勇気はない。あー面白くねー。

 スカパーじゃないですが(これはコメント欄でのご教示によるのですが)、選択肢の幅が増えれば増えるほど、でも1つしか選べない、あるいは、一番凡庸な道しか選べない、そういう自分に腹が立つ、こういう回路なんじゃないかと思います。

 これを打破するには、……また今度。

【追加1】
最近の「格差系」の議論を見ていても思うのですが、みんなだんだん、自分というものが、どうしようもない偶然から成り立っている、あるいは、偶然が作用する割合が多すぎる、ということが分かってきたんでしょうね。「努力」なんかではどうしようもない要素。どんな親から、どの国のどの地域に生まれて、どんな容姿で、どんな性格で、どんな能力を授かって……とかもうみんな偶然。だからこそ、僕を含めて、コイズミのああいう発言に腹が立つんでしょうね。「オレが今こんななのは、オレのせいじゃねえヨ!」と。

 この「自分のポジションの偶然性に気付く」が良い方向に行くこともあるでしょうが(例えば、「日本に/中国に生まれたなんて、たんなる偶然じゃねえか」的に)、しかしマイナス面に向かうと、「偶然に過ぎないのに、何でこんなに差があるんだ!」という、真っ当といえば真っ当な不満が噴き出してくるわけです。

 これを打破するには、……やっぱりまた今度。