少子化ねえ

 どうやら世論も「少子化→移民受け入れ」という流れになってきているようで、僕も大筋では賛成ですが、ただ、「移民受け入れ賛成派」が、世界の状況をあまりに見ていない(もしくは故意に無視している)のが気になります。

 「移民受け入れ賛成派」は、その多くが、「移民に日本文化を身につけさせる」のではなく、「それぞれの出身地域の文化を保持したまま日本に定住させる」ことを目指しているのでしょう。それはまあよし。しかし、「さまざまな文化を持った人たちが、それぞれの文化を尊重しながら、仲良く共存する」ということがどんなに難しいことか、アメリカやフランスのように「移民受け入れ」「多文化共存」において長い歴史を持つ国ですら、ここんとこの騒ぎを見ていると「仲良く共存」にはほど遠い状況である、ということをみても、それは明らかでしょう。

 もちろん、「さまざまな文化を持った人たちが、それぞれの文化を尊重しながら、仲良く共存する」というテーマは、無条件で善なるものです。しかしこれはあくまで目標、それもかなり敷居の高い目標であって、「そうするのが善だから、きっとそうなるはずだし、そうなるべきだ」といって善後策も考えずに「とりあえず移民入れちまえ」というのは、「歴史に学ぶ」ことを考慮に入れると、やはりちょっと無責任でしょう。

 「さまざまな文化を持った人たちが、それぞれの文化を尊重しながら、仲良く共存する」というテーマに、とりあえず成功していると思われるのがシンガポールです。国の規模などの特殊条件を除けば、とりあえずはお手本になりそうな事例です。ただし、ここは各民族の文化活動に、国家権力がかなり強く介入してきます。「華人アイデンティティを訴えるような文学創作は禁止」とか。そういう「上からの強制」にかなり依存して成り立っているのが、シンガポールの「他民族共生」だといえます。

 もしかしたら、「アメリカやフランスみたいな摩擦を経験してこそ、異文化間の共存はなされる」みたいな意見もあるかもしれません。ああいう摩擦を「必要悪」として捉えるという。しかしそうでなければ、「入れてしまえば、みんなそれなりにハッピーになるさ」みたいな楽観論は、危険でしょう。

 「移民反対派」の中には、「移民を増やすなんて、犯罪者を入れるようなものじゃないか!」などという素朴な排斥論もありますが、もちろんこれはまともな議論にはなりません。移民も「普通の人々」です。いっぽう我々受け入れる側も、「普通の人々」。しかし、米仏で起こっているような摩擦が、テロ組織や白人至上主義者のような過激派だけではなく、「普通の人々」の間で起こっている、ということから、目を背けることはできないんじゃないでしょうか。