「私たちは……」

 新聞の社説を見ていると、「私たちは……」という文章があったりします。例えば、今日の朝日では、イラクに対しては、まず国連決議を経るべきだったと「私たちは主張してきた」、みたいに書かれています。

 しかし、この場合の「私たち」というのは、いったいどこが/誰が対象となるのでしょうか。朝日の社員は、すべてこの意見です、というのでしょうか。署名記事なら「その記者が」主張した、ということになるんでしょうが、無署名、しかも複数形となると、なんだかきな臭くなってきます。まさか「こういう意見を持つ者以外は、朝日の社員としては認めない、粛清する」ということだったりして。
(なお、今回はたまたま朝日を使いましたが、他意はありません。読売だろうが産経だろうが同じです)

 企業のような「団体」が、一つの人格を模して意見を発表する、というのは、実際にはそう簡単なことではないのではないか、と思います。朝日の社員にだって、アメリカのイラク攻撃や小泉の靖国参拝に賛成する人がいるかもしれない。世論を鑑みれば、むしろその方(朝日にも参拝賛成の社員はいる)が自然です(「靖国参拝に賛成するなんて、アホな民衆だけです。あるいは病気なんです。我が朝日の社員に、そういうアホや病人はいません」とでも主張しない限り)。そういう(朝日の社内的には)マイノリティの声を、「私たち」という主語は、潰してしまう可能性を秘めている、そんな風に考えます。

 「個」と「集合体」の関係。まあ難しい問題です。