逃げる。

 昨日の高知新聞の夕刊に、橋爪大三郎センセイの靖国参拝に関する文章が載っていて(たぶん共同通信配信)、まあだいたい僕に近くて頷けるものでした。が、一つだけ疑問が。橋爪さんは、先の戦争に当たって「自分の信念とは関係なしに、不本意にも戦場に向かわざるを得なかった若者たちを弔う意味でも……」みたいな方向で靖国参拝の「意義」を説いておりましたが、そもそも、戦争から「逃げる」ことも、選択肢としてはアリじゃないでしょうか。で、それを前提とした上で、果たして戦争から「逃げる」ことを奨励する思想って、あり得るのでしょうか。

 もちろん、万が一戦争が起こった時、個人の考えで戦争から逃げる(良心的懲役拒否みたいに)ことはありえます(小林よしのりがいくら嘆こうが)。で、もしかしたら、(おそらく)左の人たちのある部分は、「もし戦争が起こったら、逃げればいい、逃げるべきだ」と教えるのかもしれません(とりあえずここでは、良い悪いは別として)。しかしここで疑問。戦争から逃げることは、即ち戦争の責任からも逃げることになるんじゃないでしょうか。「戦争では逃げたけど、戦争責任はある」って、なんか変ですよね。その逆の、「戦争には参加したけど、戦争責任はない」というのが変なのと同様。

 「逃げる」というのはすべての責任を放棄することです(これまた、良い悪いは別として)。「オレは戦争の時に逃げていた、国家的な枠組みにはまったくくみしなかった、だから戦争責任はない」というのは、理屈としては問題ないと思います。が、はたして、それが通用するか、国内的のみならず、というかむしろ、国外的にそれが通じるか、僕がもし「私は先の戦争にはまったく無関係だしこれからも戦争には反対、しかも日本なんていう国は大嫌いでとっとと潰れればいいと思っています。なので戦争責任はまったくありません」といったら、中国人ははたして納得してくれるんでしょうか。

 それを突き詰めると、「戦争とは何の関係もない僕ら世代に、果たして戦争責任はあるのか」という大問題にもつながるのでまた今度。


 ちなみに、僕自身の立場を提示しておくと、僕は参拝反対。理由は「近隣諸国への配慮」。靖国は、可能であればやはりA級分祀するべきだと思うし、それが無理なら国が別の施設を作るべきだ、という意見です。
 こうやってみると、結論はあの『靖国問題』とそう変わらないのですが、だとすると何であの本にあんなにムカつくんだろう。