とはいうものの。

 昨日の続き。

 昨日の話を押し進めれば、「朝日も、もう「一般紙」とか「総合紙」みたいな役割は捨てて、「赤旗」みたいに、特定の思想・信条を売りにするような新聞に変わればいいじゃん。そうすれば、そういう思想を持った人たちには根強い支持を受け続けるだろうし」ということになるのかもしれませんし、世の中の趨勢としては、マスメディアはそうなりつつあるのかもしれませんが(よく言われるように、日本の新聞みたいに、何百万部、なんていう発行部数自体が世界的に見れば異常なのです)、とはいえ、それもちょっとなあ、と思います。

 仮にそうなる、例えば、朝日と産経あたりがもう完全に左右に二極分化して、お互いに棲み分けをする、みたいになると、もうそれこそ、左右の対話や融合がまったく不可能になって、それぞれが見たいもの、見たいニュースしか見なくなる、という事態になっちゃうんじゃないでしょうか。「(∩゜д゜)アーアー聞こえなーい」ってやつですね。

 日本の場合、少なくとも昔は、朝日を読む人と読売を読む人の間に、そんなに思想的な断絶はなかった、と思います。せいぜい巨人が好きか嫌いか、の違いぐらいで。で、新聞自体も、自分は総合紙、公正・中立な意見を売りにしています、というのが、仮に名目だけだったとしてもあったわけです。だからこそ、右寄りでも朝日を読む人はいただろうし、左寄りでも読売を読む人もいた、と思います。広〜い中間地帯があったわけです。

 それが、もし新聞が中立というのをかなぐり捨てて、ある思想・信条に特化したら、中間層は果たしてどこに行けばいいのやら、となるわけです。


 どうも最近、日本社会全体が、「二者選択」を迫る社会になってきた、と感じています。典型的なのは選挙。小選挙区だと、自民党民主党か、という選択肢しかありえず(他の政党は、正直政策的にはほとんど無意味でしょう)、しかもそうなることがいいことだ、真の民主主義はそうなるべきだ、と政治学者なんかはいいます。「何とか法案、賛成か反対か」を強引に迫られたり。でも、本当は、特に日本は、「どっちでもない、中間層」が多い社会だったと思うのですけどね。それだからダメだったんだ、といわれればそれまでですが。


 ちなみに僕は現在、高知新聞という地元紙をとっています。最初に家に勧誘に来たのがそこだったので。

 明日から学会で古巣の札幌。