自分のポジション。

 僕はとりあえず、研究者という集団の中に身を置いているのですが、とはいえ、このポジションがなんとも居心地が悪く感じることがままあります。

 まあ、こんなことを書く学者さんは珍しくなく、「学会の堅苦しさというのがどうにも性に合わず……」「もう何年も、学会とか学術論文とか、そういうものとは関わりがない」とか書いたり言ったりしている学者さんは何人もいますが(そういうのがむしろカッコイイみたいな風潮もありますし)、僕の居心地の悪さは、たぶん彼らが感じるのとはまったく違ったものです。

 一般にこういうことを言う学者さんたちというのは、「オレは学会内でその気になればそれ相当の位置にいられるんだけど、オレの方からそんなのはお断り」という意味で言っていることが多い、と思います。それに対して、僕のは、「学会に、研究者集団に、混ぜてもらいたいんだけど、混ぜてもらえない、疎外されている」と感じるところになります。もちろん、こんなのは妄想に過ぎないことは重々分かっております。でも、こう感じざるを得ないのです。

 どの分野でもおおむねそうでしょうが、研究者集団というのは、東大・京大を頂点としたヒエラルキーのもとに構成されております。もうこれは厳然とした事実です。で、その下に、旧帝大早慶、……と序列が付いているわけです。
 その中にあって、僕のように、旧帝大以外の地方国立大出身者というのは、なんとも居心地が悪いのです。

 別にこれは、「オレが地方国立出だからといって、差別されている」というわけではありません。もしそうだったら、むしろ楽だと思います。ルサンチマンを捌け口にすることができますから。実際には、そのココロは、「あまりの実力差に、絶望感を味わう」ことが少なくない、ということです。東大京大出身者と僕とでは、そもそもの実力に雲泥の差があります。それでも、同じ研究者として、とりあえずは同じ土俵でやって行かなくてはならない。これは、変なたとえですが、草野球選手が、なんかの拍子で、プロ野球チームに入団して、しかもレギュラーとして出場しなければならない、という感じかもしれません。本当は草野球でのんびりやっていきたいのになあ……


 とはいえ、こんな僕にも、この業界において一つだけ(もっとあるかもしれませんが)有利な点があります。それは、「勉強のできない人間の気持ちが分かる」ということです。

 以前「民国期中国では、勉強なんかしたくない平民たちにいかにして勉強をさせていたか」論というのを書いたことがあります。自慢じゃないですが、たぶん、こうした視点は、エリート研究者たちには考えもつかないものじゃないか、と(勝手に)思ってます。一般の人々の、ほとんどすべては、勉強なんてしたくないのです。これは、「勉強がしたくないからしない、ゆえにできない」のか、「できないからしたくなくなる」のか、ちょっと分かりませんが、いずれにせよ「勉強が好きで好きで、本を読むのが好きで好きでたまらない」という一部のエリート研究者の方が圧倒的に少数派、まあヘンタイの部類です。

 そんな人たちが教育について論じると、「人間とは本当は勉強したいものなのだ」とか「勉強しなければ人間ではない」とか(これはまあ「女王の教室」の天海先生のお言葉ですが)、あるいはいろいろ知恵を絞って「どうやって子供たち・学生たちを勉強するようにし向けるか」をあれこれ議論するわけです。もちろん、こうしたものがすべて無意味だ、というわけではありません(そう信じたいものです)。しかし、これらの言説の根底には、「勉強は、しなければいけない、させなければいけない」という信念が根強くあると思うのです。

 そこで、僕みたいな勉強嫌いのアホ研究者にも、「本当にそうなの?」とつっこみ役としての存在意義があるんじゃないか、と思うわけです。もちろん、僕だって、教師として「教える」という実践は日々行っていますが、しかしそこでも、たんに「勉強しろ」とか「勉強しなきゃ立派な大人になれない」(今どきさすがにこんなこと言う人はいないか)とか理屈抜きにいうだけでなく、「なぜ勉強する/させるのか」という問題意識を念頭に置いて(答えは、まあ出すのは無理でしょうけど)いきたいものです。