答えのある/ない社会

レポートの採点をしていて思いますが。

日本人学生は、「自分の意見を書け」というと、生き生きと書いてくるんですよね。

「ぶっちゃけ、こうじゃないですか」みたいなの、けっこう書ける。賛否あるでしょうが、個人的には、そういうぶっちゃけ系のレポートの方が、読んでいて楽しい。いまさら「魯迅は文学により中国の悪い習慣を断ち切ろうと…」みたいなの読まされても、ぜんぜん面白くない。「魯迅のやろうとしたこと、結局何の役にも立っていないんじゃないでしょうか?」見たいな身も蓋もないレポートの方が、楽しいし、どっちかといえばそういうのを書いてほしい。


繰り返しますが、これには賛否あると思います。「文学で建て前を語れなかったら、何で語るの?」というのも、分かります。


で、いっぽう、中国人学生のレポート、本当に、型にはまっているんですね。まさに、「魯迅は文学により中国の悪い習慣を断ち切ろうと…」みたいな公式見解を、ほぼかならず書いてくる。コピペではないんだけど(たぶん)、でもなんか、コピペっぽいんですよ。

これはこれで、面白くはないけど、悪くはないんです。別に構わない。
でも、やっぱり面白くないんですよね。


これ、やっぱり、社会的要因なのかなあ、と思うです。
中国の場合、「答え」が決まっているんですよね。「それはこういう原因だ」「だからこうしなければならない」という答え、ほとんど決まっている。

逆に日本の場合、相対化が極端に進んでしまって、「答えなんかないんだ」もしくは「答えはそれぞれの人や状況によって違うんだ」というのが答えになってしまっている。


だから、中国人がよくコピペするというの、仮に本当だとして、それ自体はわからなくもないんですよ。答えはすでにあるんだから、自分のささやかな脳みそで考えるのは、ムダだし無意味。その答えを探してきて書けばいい。


それに対し「いやいや、答えなんかないんだから、自分の頭で考えて…」という指導がはたしてどこまで有効か。受け持つ留学生がますます増えていきそうなので、ちょっといろいろ試行錯誤してみようと思っています。