現場主義

昨日の続きっぽいものですが。

最近、中国在住の方々から「ナマの情報」がリアルタイムで入ってくるようになって、日本在住の中国屋として嬉しい悲鳴を挙げています。

ちょっと前までは、「ナマの情報」といっても結局は日本or中国の公式メディアが多かった。せいぜい「現地の新聞をネットで見る」みたいな感じ。

それがここ1,2年で、状況が劇的に変化した。ツイッターなんかのおかげで「庶民」のナマの声がリアルタイムで聞ける/読めるようになったし、また、「現地の庶民の声」を伝えるのも、新聞やテレビじゃなく、「ナマの日本人」になったし、またオレとって一番ありがたいのは、「「現地の庶民の声」を日本語で解説してくれる方々」が増えてきたことです(いうまでもなく、これとか。これよんでれば、「普通の中国人」となら、じゅうぶん話題についていけます)。

今となっては、新聞やテレビの記事だけで「中国の今」を語るなんてのは、時代錯誤もいいところでしょう。


「ナマの声」だけを見ても背景が分からないとなにがなにやらわからない。ネットスラングも一から勉強するのはちょっとしんどい。そういう「日本在住中国屋」にとって、こんなありがたいことはありません。逆にいうと、「日本在住中国屋」(その中でもとくに「現代中国文化屋」)の価値が、どんどん下がってきている。いや、オレも、自分の専門を「現代中国文化」とか言っちゃいますが、ほんとはもう全然およびじゃないです。上のようなサイト、あるいはツイッターの記事を垂れ流すだけ。お恥ずかしい。


とはいえとはいえ、「副作用」もあって。


中国在住の方の記事や分析で、「あれ?それはどうかな」と思うところがあっても、それを口に出せない雰囲気になって来ている、ような気がしています。仮に口に出しても、「は?だってあんた、現地にいるわけじゃないでしょ?日本でパソコンの前に座って、私らが現地でナマの中国人から集めた記事見てるだけのくせして、何で偉そうに口出しすんの?」みたいな。


いや、それはまったくそうなんですよ。オレ今もまさに、パソコンの前に座ってツイッター見ながらこの文章書いていますし。


でも、「だって私は現地にいるから/あなたは現地にいないから」という基準で主張の妥当性が計られる、というのは、これはこれで危うい気もします。もちろん、「現地組は情報を集めるだけでいい、分析はこっちでやるから」というわけでは全くないです。が、「現地で情報を集める」というのは、「その分析が正しい」を、必ずしも常に導くわけではないのかなあ、とは思っております。


まあ、わかるんですけどね、「知りもしないのに偉そうに」という気持ちは。オレも非中国屋の同僚から「中国って○○ですからねえ」とか決めつけられると、「お前、中国の何を知ってるっちゅうねん」と腹立ちますし。