教育のマニュアル化

また新聞記事に突っ込みを。ネタはまたまた朝日新聞

昨日の新聞に、都立高校の入試点数改竄の記事が載っていました。

僕も、それはマズイだろう、と思います。

しかし記事に、「指導困難高」に着任して「毎日、自らジャージーに着替え、ほうきやガムをはがすへらを手にして、校内を掃除」したりして、「すさんだ雰囲気をなくすと共に、生徒と言葉を交わすきっかけにした」というスーパー校長先生の話が出てくると、どうもイヤな臭いがしてきます。


いや、この校長先生は、純粋にすげーなーと思いますよ。別に揶揄する意図はありません。

僕が危惧するのは、この手のお話が、精神論に行き着き、問題が教師の心の問題に帰されてしまうことです。

つまり、「教師がやる気を出し、生徒に本音で向き合えば、いくら荒れた生徒でも分かってくれるようになる」みたいなストーリー展開が、そのうち反転し、「生徒が荒れているのは、教師が本音で向き合っていないからだ」「教師の意識を変えなければ」となってしまうのではないか、という危惧です。


内田先生がたびたび言うように、生徒は生き物・生ものです。「こうインプットすれば、必ずこう返ってくる」というものではありません。「こうすれば、必ず成功する」というマニュアルも、ありません(今のところは)。
上で挙げたスーパー校長先生だって、他の学校で同じことをしても確実に成功するかは、分からないと思います。


だからこそ、マニュアルが必要なんだと思います。いや、もちろん、マニュアルはあるんでしょう。ただ最近の状況を見ると、特に教育問題に関しては、「マニュアル化」というのが否定的に語られがちです。「子どもたちは機械じゃない」とかいってね。でも、機械じゃないからこそ、さらに精緻なマニュアルが必要なんじゃないでしょうか。


そのマニュアルが「子どもたちに本音でぶつかる」とかいう「心構え」を説くようなものだったらまたげんなりですが、しかし一緒にトイレ掃除をするとか元ヤンキー先生が特訓するとかそういう「特殊例」じゃなく(いや、トイレ掃除をマニュアルに盛り込むのであれば、それはそれで分かりますが)、教育をもっと一般的に、誰でもできるように徹底的にマニュアル化することこそが、今は必要なんだと思います。もちろん、このマニュアルを作るのこそが容易じゃないんでしょうけど。