ちょっと真面目に

昨日の『盲山』における他者についてつけたし。

『盲山』が農民を他者として描いているからダメ、とかいう単純なお話では、ないつもりです。そんなこといったら、所詮は自分以外は他者なんだから、自分語り映画以外は成り立たなくなってしまいますし。


最近ブームも一段落した感もありますが、一時期、中国では、「内なる他者」、すなわち農村・農民研究が大ブームでした。博士課程クラスの若い研究者のフィールドワークが続々と本になり、書店の書架を埋め尽くさん勢いでした。僕も結構買って、パラパラと読んで、まるで自分でフィールドした気になったものです。

そのうちの1冊に楊方泉『塘村糾紛』(中国社会科学出版社、2006)という本があります。広東省にある塘村(仮名だそうですが)という、人口2000人あまりの小さな村のフィールド調査です。農村のフィールドはたいてい「都市とは異なる農村の社会システム」を叙述したものなのですが、この本もご多分に漏れず、塘村内で起こる氏族同士の「衝突」(時には流血も引き起こされる)発生のメカニズムを記した本であり、内容自体は面白いものでした。

しかしさらに興味深かったのは、この本の著者自身が、この村のすぐ近くの出身であり、本来、彼自身、こういった「農村のメカニズム」とは、完全に無縁ではなかった、ということです。つまり、著者が、都市の大学に入学し、法律の学位を取り、ある大企業の法律顧問となり、そして再び大学に戻って研究者となることで、初めて農村のメカニズムを記述する資格を与えられた−−僕はそうしたメタメッセージを勝手に読み込んで悦に入りつつ、この本を読んでいたのでした。


さて『盲山』ですが、この映画は、ストーリー性を結構周到に排除しており、それがそこらの映画とは一味も二味も違ったものにはしているのですが、その中で唯一といっていいであろう明確なメッセージは、「教育の重要性」です。騙されて農村に嫁として売られてきたヒロインの大卒女性は、周りに誰一人気を許せる者がいない中、貧しさのため学校にいけない子供と知り合い、その子供に勉強を教えることに、安らぎを見出します。最初はその子一人だった「生徒」も、徐々に増えていき、さながら私塾のようになっていった、そういうシーンがはさまれます(そしてのちにその生徒から「衝撃の事実」を聞かされることにもなるのですが)。


これだけなら「子供を救え」的な、あるいは「教育が何よりも大事」的なお話となり、そこに解決を見出すというある意味「救いのある」お話になるのですが、しかし重要というか皮肉なのは、このヒロイン自体、何を隠そう大卒である、ということです。彼女は、大学を卒業しても職がなく、山で薬草を取る仕事、という話に引っかかり、まんまと山奥の村に連れてこられてしまった、という設定です。一生懸命勉強した、その成れの果てがこれかよ、ということで、「教育が貧困を救う」というメッセージへの強烈な皮肉になっている、といえます。村一番のインテリである小学校教師が、彼女の理解者であるように見せかけて単なる体目当てだったりするのも、これに輪をかけます。


そして、さらなるメタメッセージとして、彼女が、農民たちとほとんど変わらぬような田舎訛りで話す、完全な田舎娘として描かれている、ということです。僕は最初、彼女が大卒という設定に気づかず、単なる(というのは失礼ですが)田舎娘、なんだと思っていました。だって、大学まで出ていて、それでそんな話にコロッと引っかかるだなんて、ねえ(ただ彼女の両親に7000元もの「代金」が支払われた、ということですので、すべて彼女の判断ミス、というわけではないんでしょうけど)。べつに、大卒は高卒より頭がいい、と僕が言いたいわけではありませんが、こと中国では、そうした序列(「大卒は高卒・中卒より頭がいい」)は、特にタブーでもなく、一般的な価値観として、普通に語られます。大卒、しかし判断力は大卒とは思えない。訛りもきつい。そんな女性が主人公なせいか、全体的にどことなくユーモラスなんですよ。もちろん、笑いのシーンなどは出てこないんですが。


つまり、(こういう設定は難しいでしょうが)彼女がもし、標準語をしゃべる大卒だったら、どうだったか。完全な「人身売買」として、「こちら側」の人間が「あちら側」の人間にさらわれた、という犯罪を告発する、そういうタッチの映画に、なっていたんじゃないでしょうか、彼女が農民と変わらぬ訛りを話していればこそ、そんなに緊迫感のない、「あちらのお話」「あちらの世界の揉め事」として、安心して見物することができた、んじゃないでしょうか。
(なお余談ですが、彼女が標準語ではなく訛りを話してくれたおかげで、可愛いらしさも倍増です)


一見教育に救いを見出しているようで、その実、都市(映画を見る側)と農村(見られる側)との間には越えられない壁がある。田舎者はいくら大学を出ようが田舎者。こちら側の人間とは違う−−いや、深読みなんでしょうが、なんかそんなメタメッセージを感じてしまったのでした。


さて、都市と農村との間のこうした「壁」を、今の事件、すなわち漢民族チベット族との間に見出すことも、可能でしょう。しかし同時に、同じような「事例」は、日本と中国との間、西洋と非西洋との間、等等、いくらでも見つけ出せるわけです。


もちろん、そうやって相対化してしまうのは、それこそ「チベットでの虐殺をやめろ」「いやアメリカだってイラクで人を殺している」「いやいや日本だって第二次大戦で」という、不毛な「どっちもどっち」論への道を開いてしまうのかもしれません。で、どうするの?といわれるとぼくもう〜むと考え込むことしかできませんが、でもやはり、こうした壁を、少しずつでも、取り除くこと、取り除く努力をすること。

ヒロインの黄璐ちゃんを発掘した以外に、こんなことを考えることができたのが、この映画の収穫でしょうか、


なお、黄璐ちゃんのブログはこちら、写真も満載。ただし生声付きなので開くときはご注意を。
http://blog.sina.com.cn/huangxiaxi/

日本の女優の誰かに似てると思うのですが、池脇千鶴かなあ。