続・差別

たびたびのTBで申し訳ないですが。

kmizusawaの日記−「差別」を指摘されることについて考えてみた

おっしゃるとおり「差別(主義者)」というのは「魔法の言葉」で、これを言われると、本当に凄まじいダメージを食らいます。必死になって弁明して、なんとかそのレッテルを剥がさないと、と思ってしまう。

例えば、今、左派界隈では、「おれ、やっぱ日本や日本人が好きなんだ」というのすら、はばかられるような現状です。そういったとたん、「お前はナショナリストだ」「人種主義者だ」「外国人排斥だ」とかなんとか、「差別主義者認定」されてしまうんじゃないか、あるいはそこまでいかなくても、そういうエントリを例えばブログで書いたら、間違いなく茶化されそうな……いや、されたことはないですが、されてもおかしくないなあ、ぐらいの雰囲気。


差別判定のすべてがおかしいとか間違っている、といいたいわけではもちろんないにしろ、「差別論」素人の僕が疑問に思うのは次の二つ。


1.当事者性。
これ、「差別論」ではどうなっているんでしょう。つまり、ある集団が差別されたとして、その集団以外の人が、どれだけ被・差別者を代表できるのか。
女性差別は、男性には分からない」とか、「在日差別は、日本人には分からない」とか、もちろんそんな理屈は一見馬鹿馬鹿しいですが、でも完全にチャラというわけでもないでしょう。つまり、差別されたその(心の)痛みを、どれだけ「非・当事者」が、同じように感じ取ることができるのか。感じ取らなければならないのか。差別と戦う運動をしているような方(もちろん、その運動自体には十二分に敬意を払いますが)の言い方を聞いていると、「痛みを感じないようなのは、人間じゃない!」といいかねないぐらいの激しい主張をよく目にするのですが、しかし僕みたいな醒めた人間には、「所詮は、痛みを感じようとしても、「感じたつもり」にしかなんないんじゃねーのかなあ」とか思っちゃうわけです。


2.「ことば」の力。
前回も書きましたが、「ことば」と「行動」は、やはり分けるべきなんじゃないのかなあ、という点。

たとえば就学や就職で差別的な扱いを受けた、これはもう間違いなく差別です。これはこの世から全廃すべきです。

ただ、ことばによる「痛み」の場合、どこまでそれを敷衍できるのか。こんな風に分かりやすければ一発アウトですが、でも「ある人にとっては傷ついても、ある人にとっては別になんでもない」なんて、いくらでもあるでしょう。教師みたいに普段大勢の人間を前に言葉を発する仕事をしている人間にとって、これはかなり深刻な問題です。たとえば、「中国の現代文学の発展は、欧米や日本に比べても、かなり遅れたものだった」みたいなことは、それが自分の見解だったとしても、それを聞いていた中国人が傷つく可能性があるので、言わない方がいいのか。そういうことをいったとたん、オレは差別主義者になってしまうのか。自分では「中国人を差別する」なんてつもりは全くないのに、オレの心の中には差別というドス黒い花が咲いているのか、ああオレはダメなヤツなのか……などと、クヨクヨ考えてしまうのですよ。


もちろん、「だから差別について考えるなんてムリ・ムダなんだよ」とかいいたいわけではもちろんありません。たぶん、「差別研究」の世界では、こんなことは太古の昔から議論されていることでしょう。なので僕がいろいろ勉強すればすむんでしょうが、なかなか時間がなくて。と言い訳。