春は名のみの

欝は春にひどくなるといわれます。ぼくも、欝というほどではないけど、「鬱々として楽しまず」というところ。


香港くんだりまできて、図書館で古新聞を漁っていても、「こんなことして、なんになるんだろ」と、まるでやる気が出ません。まあ機械的に読んで、スキャンする、という作業はしているものの、もう本当に機械的


研究自体がつまんない、というわけではないんです。まあそれなりには面白い。でも、その脇で常に、「お前、こんなことして、本当に楽しいか? しかもこんなことが、なんの役に立つんだ? 世の中の動向に、1ミリたりとも影響を与えるか?」という声がする。するとやる気も何もなくなってくるというわけ。


「おれは研究はあくまで余技。本当にやりたいこと・趣味のために、仕事としてやってるのさ」と割り切れる人(こういう人は、けっこういます)は、うらやましい。僕にはそんな趣味はありません。することがないときには本を読むような、完全な無趣味人間です。しかも本を読むというのも、どっちかといえば消去法、「することがないから、本でも読むか」というものです。


こういう鬱々は、最近どんどんひどくなっているような気がします。学生のころは、もちろん無くはなかったのですが、すぐに収まりました。とにかく食えるようになるためにそれなりに必死だったし、しかもこっちは金を払って勉強しているわけですから、いわばこっちの勝手だったわけです。しかし曲がりなりにも食えるようになり、というか金をもらう身分になると‥‥
なーんか、猛烈に虚しくなってきたのです。1930年代の香港がどうしたこうしたって、そんなんなんか役に立つのか?せいぜい論文の最後に、「これは現代社会にも通じる問題である」とか言い訳がましく書くしかできないんじゃないか?


周りの(特に人文系)研究者たちは、あんまりこういうことは考えていないようで(周囲には見せてないだけかもしれませんが。僕だって、実際にはこういうこと、言ったりはしませんし)、本当に心から、研究に専念しておられる。うらやましい。


学生のころ、こういう虚しさに囚われたときは、「就職して、おっさんになったら、たぶん麻痺しちゃって、何の疑問も持たなくなるんだろうな。早くその時が来ればいいな」と漠然と思っていたのですが、就職して、おっさんになったら、ますますひどくなるとは思いませんでした。まあ今は、シケたゲストハウスに一人ぼっちで泊まっているから、余計に哀しい気分になっているんだと思いますが。