強い人仕様

先日、「丸山昇先生を偲ぶ会」の案内メールが、僕のとこにも来ました。

一般的知名度はそうでもないかもしれませんが、僕の業界においては、まあ神様みたいな方です。

一応僕も弟子筋には当たるのですが、直接言葉を交わしたこともありません。遠い遠い存在です。文字通り、足元にも及びません。

実際、彼の魯迅論は、まあ素晴らしいの一言です。学生時代、惚れ惚れしながら読んでおりました。


しかし、魯迅研究とかから離れた、彼の一般的な評論などを読むと、畏れ多いことながら、「違うなあ」と思わざるを得ないのです。いってみれば、思想が「強い人仕様」なんですな。


例えば、これ。

 思想改造あるいは人間革命は、当時の日本では中国革命の最大の特色・魅力と考えられていたもので、それ自体全面的に誤っていたとは、現在でも私は考えない。しかし後からの智恵になるが、この段階[1950年、作家沈従文が「革命大学」に入った時点。沈従文はここで、思想点検や反省、再認識などを課され、「自己点検書」を書かされる:sean注]でも、すでに問題が潜在していたことは見ておかねばならないだろう。それは次のようなことになる。
(一)権力の側からの「思想改造」は、その方法の如何にかかわらず、不可避的に強制の要素を持たざるを得ない。それが、「過関(関門をパス)」するかどうかに結びついて資格審査的なものになる場合、とくにそうである。
(二)個人の内面を尊重する伝統・習慣が弱いところでは、右の欠点は増幅される。中国では一貫して、誤りを認めれば罪は軽くなる、誤りは功績で償えということが強調された。[以下略]
文化大革命に致る道』(岩波書店、2001)、19頁


これを読んで、背筋にゾクッと寒気が走ったものでした。ここを読む限りでは、「思想改造自体は悪くない。やり方がマズかったのだ」と言っているようにしか思えません。が、「思想改造」なんてものは「その方法の如何にかかわらず」−それがかりに丸山先生に施されるものであっても−真っ平ごめんの僕としては、こういう考え方にはまったく付いていけません。

思うに、これは、自分のポジショニングの問題なんでしょうね。丸山氏の場合、遅れた民衆を(革命理論によって?)引き上げなければならない、という感覚があるんだろうと思われます。つまり、自分を思想改造「する」側に置く。いっぽう、僕なんかは、根がアホなもんですから、自分を「される」側に置いてしか考えられない。偉そうなオヤジに「思想改造」されるなどと想像するだけで、「愛国心」の説教を聞かされると想像するのと同じくらいに虫酸が走ります。

そしてさらに。丸山氏の場合、民衆に注入すべき理想や思想があり、思想改造を担うにふさわしい「強い人・立派な人」もおり(ご自分をそれに当てはめているかはともかく)、優れた思想改造の方法もある、と(おそらくは)考えている。しかし僕は、そんなもの全部有りはしない、完全に納得できる理論など無いし、思想改造されたいと思うような人もいない、オレもアホかもしれないけど、世の中のたいていの人は、オレに負けず劣らずアホだよ、そんなアホに思想改造されるなんて真っ平、としか考えられない。


どっちが正しいか、はわかりません。ただ、世の中の仕組みを妄想する時に、「アホが多いから、アホを鍛えて賢くしよう」と考えるか、「アホが多くてもなんとかまわしていけるような仕組みを考えよう」と考えるか、という歴然とした違いはあるのでしょう。で、前者の考えって、やっぱ「強い人仕様」なんだよな、と、後者の僕は思ったりするのでした。