大学における外国文学教育の終焉

最近、うちの大学でも、「課題探求型」といわれる、学生が自由にテーマを選んで卒論を書く、みたいなのにシフトしつつあります。

僕のいる学科では、まだ「日本史」「西洋史」「ドイツ文学」「フランス文学」みたいな枠で学生を抱え込んでおりますが、それが崩壊するのも時間の問題でしょう。


こういう情勢下、一番(かな?)分が悪いのは、外国文学系です。なにせ、ここには「外国語」という壁がある。
僕の頃は、外国語をマスターした上で、アホほど時間をかけながら、原文で作品を読み、卒論を書く、という作業が当たり前でした。
ところが今、とくにいわゆる「一流大学」でないとこでは、そう悠長なことはしてられません。まあ基本的には、ほとんど翻訳で、となる。


しかしそうなると、こちらも外国文学のゼミでは一般的であろう「原書講読」の意味が薄らいでくる。どうせ翻訳でやるんだから、外国語やってもあんま意味ない、というわけで。

で、そのうち、学生に好きなテーマで好きなように発表させる、のがゼミということになる。


しかしそうなると、今度は教員の専門などというのもほとんど無意味になります。たとえば、(これはこの前の会議で例に挙がっていたものですが)「ウェディング・ケーキの研究」をやりたい、という学生がいたとして、今の時点で僕んとこにそういう学生が来たら、「いや、僕は専門外だから」とお断りします。しかしそういう卒論をアリにする、となると、基本的には「専門外だから断る」ということはできなくなります。「ウェディングケーキの専門家」なんて(少なくともうちには)いないんだから。なので学生は、教員の専門ではなく、人柄とか、全員に優をくれるとか、そういう基準で選びやすくなる。


もちろん、これは一概に「悪いこと」とはいえないかもしれません。ただ……


これからの大学教員に必要なのは、専門知識よりも何よりも、「学生をおだてて、褒めて、やる気を引き出す技術」なのかも、しれません。