解決法

例えばいじめ問題を解決するには、いじめた子に対し、登校禁止にする、あるいは転校させるなどの「罰」を与える、という方策が考えられます。


ただそうなると、その罰を与える主体、教師あるいは教育委員会ということになるんでしょうが、その権限が今以上に強化されてしまう、という副作用を伴います。ある生徒が明らかに他の生徒をいじめており、しかし本人も、その親もその事実を認めない、という時、それでもその生徒を強制的に罰するような、そういう権力を付与する、という。


だいぶ話は違いますが、「格差是正」なんかもそうじゃないかと。格差を是正するとして、その主体は誰になるんでしょうか。政治家でしょうか。官僚でしょうか。いずれにせよ、再配分を行うにはこれまた強大な権力が必要になります。


いじめを解決するにも、格差を是正するにも、どっちにしても「大きな権力」を指向することになります。しかし、なぜかそういう声はあんまり聞こえてこない。ネオリベ(「民間にできることは民間に」)を標榜しつつ権力志向を強める右派のちぐはぐさはいうまでもないですが(たとえば、教育なんかで、民間への委譲・民間的発想を叫びつつ、教育基本法改正などで統制を強める、という)、本来なら権力奪取・大きい政府をもっと目指してもいいはずの左派も、なぜか「自由」を強調し、権力(的なもの)を毛嫌いする傾向にある。


同情するなら金をくれ、ならぬ、問題解決したいなら権力をくれ、といいたいところなのですが、はたして、誰にいえばいいのか。