価値観の違い

今回は文学関係の研究会に出てきたのですが、まあ、やっぱり、価値観が違うな、と。


文学をやっている人というのは、基本的に、「個人」が好きなんですね。抗しがたい、大きな歴史の流れにおいて、個人が、(たいていは「その流れに逆らって」)どういう道を取ったか、取りえたか、考えたか、みたいなのに萌える人が多い。「個人」>「歴史の流れ」なんですね。これは老若男女問わず、文学研究者に見られる性向です。


一方僕は、「個人」には、基本的に興味がない。「個人がどう考えたか」自体、時代の流れからは自由ではありえない。「時代の流れ」によって生まれた「個人の思い」(の集積)が、さらに大きな流れとなって「歴史の流れ」を拡大していく、みたいな考えに萌えます。だから、大文学者であろうが名もない農民であろうが、そういう「個人の思い」を等しく扱い、それを集めて、この時代には何が考えられていたか、を探る作業が大好きなのです。


なので、2日目の飲み会の席でも、ある先生が「自由経済ネオリベ的価値観の猛威の中で、それに一貫して抗い続けている」中国の「新左翼知識人」について熱く語っておられて、もちろん、それはじゅうぶんにカッコイイ姿ではあるし、僕も個人的にどっちの人間が好きかと聞かれればそういう新左翼の人たちですが、「そういう新左翼だって、自由経済に抗う文章を書き、中国や日本の一部の知識人の評価を得て、地位が上がり、本が売れ、儲けているわけだから、自由経済に組み入れられているんじゃないの?」という突っ込みも……まあ、言えはしませんでしたが。


そんなわけなので、研究会での他の発表に、僕は今ひとつ、興味が湧かなかったし、逆に僕が発表中も、一部を除いては、あまり聞いていただけていないようでした。

もちろんこんなのは個人の好みの問題であり、どっちが上と決められるものではないですが、ただ、歴史における個人の役割がますます卑小化されていっている今、いわゆる「文学研究」が廃れていっている(ように見える)のも、無理はないのかな、と思ったりしました。


いや、研究会自体は、面白かったですけど。本当に。とくにI氏の的確なコメントには、マジで萌えました。