すべてを脱ぎ捨てよ!

 年末に読んだ本を。上野千鶴子編『脱アイデンティティ』。

 相変わらずアフィリエイトしていない上に、別にお勧めでもないので、まあ買いたい人は買ってください、という程度。

 しかし、このタイトルに打たれました。書店で見て、思わず買ってしまった。

 中身はまあ予測通り。別にこれといっては。しかし、繰り返しますが、タイトルに打たれた。

 そう、「アイデンティティをすべてなくせば、いい世の中になれるじゃん!」ということを気づかせてくれたのです。

 普通上野さんとかそういう人たちがやっていることは、「脱国家」です。国家がなくなれば、もっといい世の中になる、と。
 しかし、僕なんかには、どうもこれが信じられない。というか、国家のあとに、「宗教」とか「民族」とか「地域」とか、そういう単位を持ってきても、それで「国家時代」よりもいい時代、争いのない時代になるという保証はどこにもなく、よくて現状維持、下手すると悪化の恐れあり、に思えるのです。


 ところが、「国家だろうが宗教だろうが民族だろうが、そういうアイデンティティをすべてなくそう!」という主張は、ドンピシャ。いままで(たぶん)誰も言ってなかったことだとおもうのですが、まさにそうなんですよ。今起こっている紛争は、もちろん国家もですが、民族とか、宗教とか、あるいは人種などにおける、異なるアイデンティティを持つもの同士による争いがほとんどです。もちろん、アメリカの白人−黒人のように、そこに経済格差が絡むものもあるでしょうが、しかしこれも、白人−黒人の差異が、そのまま経済格差にも反映している、という側面が強いでしょう。そして、そういうアイデンティティなどという「余計なもの」を無くしてしまえば、争いの元も消える。
 今までの「脱国家論」は、薄ら甘いものでした。国家はダメといいながら、宗教や民族には黙りを決め込んだり、極々少数の「うまくいっている事例」をピックアップして終わりだったり。「民族や宗教もダメ、ムダ」という主張には、ついぞお目にかかったことがありません(そう、この『脱アイデンティティ』すら、こういう主張を貫徹している論考はありません)。しかし、例えば今のイスラムで、国家を全廃しても、それで争いが根絶されるとは思えません。あるいは、各地で起こっている民族独立運動に、「国家を創造したところで、いいことないですよ」という説得に、効果があるとも思えません。国家もダメ、民族なんてもってのほか、宗教なんか捨てちまえ!こう主張してこそ、初めて本当の「脱アイデンティティ」といえるんじゃないでしょうか。実は、日本のように比較的宗教色・民族色(後者は最近やや怪しくはなっていますが、でもいまだに他よりはマシでしょう)の薄い国家(かくいう僕も、無宗教)の知識人こそ、こういう主張を繰り広げるべきだ、と思うのです。

 まあ世界にこの考えが広まる可能性はきわめて薄いものでしょうが。