台湾日記
ブログがこれに代わって以来、前にもまして書き込む気が起きなくて。
最近ツイッターで「40代以降に起きた社会の変化は全部「悪いもの」に思える」みたいなのがまわってましたが、まさにそれに罹患してます。
久々の海外。台湾です。
研究とはひとまず関係ない、いわゆる校務。
中国研究者が中国に行かないというのは致命的なのでしょうが、もう諦めてるというか、そもそも「書かれたもの」が対象なわけだから、行かなきゃダメってもんでもない、と自分を納得させてるというか。
実際、文学研究者の場合、基本は「書かれたもの」を相手にするわけだから、現地に行くいかないは、本質ではない、とはいえます。
たとえば周りのイギリス文学者がしょっちゅうイギリスに行ってるかというと、そうでもないみたいだし。
でも中国文学の場合、やっぱり「中国」の要素は欠かせないというか外せないというか。
中国文学研究者に「中国」と「文学」、どっちに力点があるかというと、わりといい勝負だと思います。これ、(日本の)日本文学研究者だったら、「日本を研究してます」という率は相当低そうです。アメリカ文学やドイツ文学でもたぶんそう。
などと脈絡のないことをあれこれ考えているのでした。
正解はあるのか
まだ早いよといわれるでしょうが、娘の将来、いろいろと考えてまして。
もちろん本人の意志を尊重するのは大前提ですが、その前段階にお膳立てをするかしないかは、やはりある程度決めなくてはなりませんし。「習い事も塾も何も行かない」というのも、それはそれで決断が必要になる。
大きくいえば、「日本か、それとも海外か」というところでしょう。日本もこの先、ろくなことになりそうにないし、だったらある時点で海外へ送り込んで、というのは当然考えます。
しかし一方、私が行ったり見聞きしたりする限り、日本人に生まれたからには、日本が一番暮らしやすそうですよねえ。
もちろん、いろんな種類の才覚があれば、海外の方が断然成功しやすいでしょう。が、才覚があるかどうか、いつどこで判断すべきか。本人の意志はどこまで考慮するべきか。あれ、「本人の意志を尊重」だったよな?とか。
悩みはつきません。そして正解もたぶんないのでしょう。が、一方「誤答」はあるのですよね。やっちゃダメなことはある。でも、正解はない。いやはや、なんとも難しいですね育児って。
n=1
最近、ブコメなんかで、「n=1」というのが多くは揶揄で使われるようになってます。
つまりは、「そんなのサンプル数1だ」というの。
「私はこうしたらこうなった」みたいな体験談で、よくこのブコメがつきます。
それはたしかにそうです。体験談は、ほとんどがサンプル数1。2回やって2回とも、というのもありえますが、同じ人の体験であれば厳密にサンプル数2とできるかは、微妙です。
これ、これまた最近(個人的に)ホットな「質的/量的」にもかかわるというかズバリこれですね。
質的研究で対象についてインタビューやらなにやらでいくら精緻に調べたところで、量的の人にとっては「だってそれn=1じゃん」で終わり。
この違い、我ながら本当にホットで、文学研究ってはたしてどっちなんだろうと考えたりします。両方ありうるけど、多くはやっぱり質的だよな、そもそも作家論って質的だし、とか。
そんなことを考えている(事実上の)春休み。
故郷から遠く離れて
新年早々、父が亡くなりました。
今大流行中のインフルエンザ。そしてこれもしばしば報道されるように、施設で罹患。
施設はこういう時にどうしようもないですね。
昨日、火葬にしてきたのですが、完全な家族葬。
なにしろ、ずっと宮城県で暮らしてきた父ですので(倒れた5年前に呼び寄せ)、こっちに知り合いも親戚も誰もおらず。
父のきょうだいがちらちらと電話をよこすものの、みな「ちょっと遠いので、今回は行けないわ」と。まあ私もその方がありがたいのです。
で、姉一家とうち一家でひっそりとお見送り。
故郷から遠く離れて住み、死ぬと、こういう風になるのですね。もちろん、だからよくない、とはいえません。周りの人には「羨ましい」「もしうちの親が死んでこういうこと(家族葬)したら、親戚に何いわれるか」といわれてます。
私もおそらく、故郷から遠く離れた地で死ぬことになりそうなので、まあこういう形でひっそりこの世から消えるのでしょう。まあそれもよし。